日露戦後から明治末年、復活した富沢村長(五期目)のもとでの多摩村政の時期は、全国的には地方改良運動が戊申詔書(明治四十一年)を契機に本格的に推進されはじめた時期にあたっている。以下、明治末年までの多摩村における地方改良運動の状況をみておこう。
地方改良運動は、日露戦後の疲弊した地域社会を建て直し、かつ植民地を領有する列強の一員として成り上がった日本の、さまざまな国家的要請にこたえることができる強力な地方自治体を形成するために、政府が推進した一連の諸政策の総称である。そうしたなかで、行政町村の求心力を強めようと、神社合祀(神社合併)や部落有林野統一、青年集団の統一、小学校統一などが推進されていく。多摩村でも各地区(旧村)内に神社や共有財産や青年会があり、こうした地区を基礎に小学校も多摩村内部に分立していた。この行政町村内の割拠状況を克服して、行政町村としての一体性を強めることが、地方改良運動では重視されていたのである。
だが、明治末年の多摩村では、地方改良運動の諸政策がかならずしも組織的に行われたわけではない。地区の共有財産の統一はまったく実施されておらず、神社合祀もきわめて部分的なものにとどまっていた(本章五節)。ただし、本章四節にみるように、小学校の多摩村単位への統一は強力にすすめられ、大正初年には多摩村単位での青年会が誕生している。
多摩村で地方改良運動が組織的に行われるようになるのは、東京府知事に井上友一(ともいち)が就任する大正四年(一九一五)以降のことになる。井上は地方改良運動の中心となった内務官僚で、彼の府知事就任により東京府では地方改良運動が強力に推進されていった。この大正期の多摩村における地方改良運動については一編七章三節であらためて述べることとしよう。