このように、連光寺村御猟場多摩村分の区域指定は、事実上、継続することになったが、稲城村内での同御猟場区域の土地所有者からの苦情は制止することができず、八月に至っても請書が取れなかった。そこで、主猟局監守長富沢政恕は、神奈川県属長野との協議の末に、稲城村域での御猟場区域指定更新は断念し、そのかわり、多摩村のうち大字落合、和田、百草を、あらたに連光寺村御猟場区域に編入することを主猟局に提案した。しかし、主猟局長の方は、御猟場に関する苦情が相次いでいる現状で、新規に他村を編入しても、今後の維持の見通しがたたないので、見合わせるようにという指示を出した。政恕の案は、自分の息子の政賢が村長となっている多摩村域と連光寺村御猟場区域を一致させようとするものであった。政恕の意図は、息子の政賢とともに御猟場を通した天皇権威を背景に行政村としての多摩村統一をはかり、年来の宿願である地域発展を目指したものと思われる。政恕はこの構想の実現を、この後も企図し続けた。
結局、この更新の年、連光寺村御猟場は、区域内のうち、稲城村に合併された旧村々をはじめ、柿生村に合併された旧黒川村からも請書をとることができず、同年九月、その指定が解除された(表1―6―6・図1―6―6)。この結果、連光寺村御猟場区域は縮小され、すべてが多摩村内のみの指定となった(表1―6―6・図1―6―6)。これにともない、指定解除になった稲城村、柿生村の御猟場区域に対しての下賜金分が減額となり、連光寺村御猟場区域に対する下賜金総額は毎年六一円二六銭三厘となった。
図1―6―6 連光寺御猟場区域
鳥獣被害は、その後も増え続ける一方で、指定更新された区域民も指定解除の願望をつのらせていった。宮内省主猟局としては、こうした状況から、苦情や指定解除要求が表面化しないように、しばしば、主猟官を派遣して、農民にとっての有害鳥類である雉子や山鳥の駆除も行った。雉子や山鳥は、御猟場の狩猟対象であり、元来保護されるはずのものであったが、宮内省としても区域民のために駆除せざるをえなかったのである。