御猟場指定の更新

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明治二十二年(一八八九)、町村制が施行され、連光寺村御猟場区域内にあった旧村も、それぞれ、表1―6―6に示したように多摩村、稲城村、柿生村の三か村に合併された。明治二十五年(一八九二)三月、連光寺村御猟場指定更新の時をむかえ、宮内省側としては向こう十五か年間、現状のまま指定を継続させようと、下賜金の増加を決定し、年間総額一〇〇円を土地所有者に渡すことにした。このときの連光寺村御猟場区域の各区(旧村)別の下賜金配当は表1―6―7のごとくである。この手当金は同年四月分から御猟場内各区(旧村)に分配されることになったが、例えば連光寺区(旧連光寺村)の「連光寺分配当表」によれば、耕地はおよそ反別金一銭六毛、山林原野はおよそ反別金五厘三毛と、前回のおよそ二倍半の配当額となっている。そうした下賜金増額の条件受諾の説得は、南多摩郡長や各村長にまかされた。しかし、この条件受諾は、事実上、御猟場指定の十五か年更新の意味をもっていたため、六月に至っても区域民から、その請書がとれず、郡長から多摩村長富沢政賢に対し、督促がなされた。説得の際、下賜金が「恩賜」(天皇からの賜りもの)であることも強調されたが、七月に入っても請書がとれる見込みがたたず、同月八日、村長富沢政賢宅に富沢芳次郎、小金寿之助ら七人が集まり会談が開かれている。この会談内容の詳細は不明だが、その二日後には、多摩村の連光寺村御猟場区域内各地区の土地所有者惣代から、さかのぼって明治二十五年四月から十五か年間、毎年下賜金を受け取る請書が神奈川県知事に提出された。政賢のもとに集まった七人が中心となって、地主層に対してなんらかの説得工作を行ったことが想定できよう。この請書の内容には、十五か年間の指定更新の明記もなされておらず、また県が提示した請書の雛形にはあった指定期間中に損害があっても文句は一切いわないという文言は削除されている。また、以上のように請書提出までに時間がかかってもいることから、御猟場指定更新に対する地主層の根強い反対意識が読み取れよう。
 このように、連光寺村御猟場多摩村分の区域指定は、事実上、継続することになったが、稲城村内での同御猟場区域の土地所有者からの苦情は制止することができず、八月に至っても請書が取れなかった。そこで、主猟局監守長富沢政恕は、神奈川県属長野との協議の末に、稲城村域での御猟場区域指定更新は断念し、そのかわり、多摩村のうち大字落合、和田、百草を、あらたに連光寺村御猟場区域に編入することを主猟局に提案した。しかし、主猟局長の方は、御猟場に関する苦情が相次いでいる現状で、新規に他村を編入しても、今後の維持の見通しがたたないので、見合わせるようにという指示を出した。政恕の案は、自分の息子の政賢が村長となっている多摩村域と連光寺村御猟場区域を一致させようとするものであった。政恕の意図は、息子の政賢とともに御猟場を通した天皇権威を背景に行政村としての多摩村統一をはかり、年来の宿願である地域発展を目指したものと思われる。政恕はこの構想の実現を、この後も企図し続けた。
 結局、この更新の年、連光寺村御猟場は、区域内のうち、稲城村に合併された旧村々をはじめ、柿生村に合併された旧黒川村からも請書をとることができず、同年九月、その指定が解除された(表1―6―6・図1―6―6)。この結果、連光寺村御猟場区域は縮小され、すべてが多摩村内のみの指定となった(表1―6―6・図1―6―6)。これにともない、指定解除になった稲城村、柿生村の御猟場区域に対しての下賜金分が減額となり、連光寺村御猟場区域に対する下賜金総額は毎年六一円二六銭三厘となった。

図1―6―6 連光寺御猟場区域

 鳥獣被害は、その後も増え続ける一方で、指定更新された区域民も指定解除の願望をつのらせていった。宮内省主猟局としては、こうした状況から、苦情や指定解除要求が表面化しないように、しばしば、主猟官を派遣して、農民にとっての有害鳥類である雉子や山鳥の駆除も行った。雉子や山鳥は、御猟場の狩猟対象であり、元来保護されるはずのものであったが、宮内省としても区域民のために駆除せざるをえなかったのである。