日露戦争後の御猟場

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日露戦争後の明治三十八年(一九〇五)十一月十五日に、各御猟場において制定されていた規則は廃止され、全国統一の規則があらたに定められた。明治十六年(一八八三)に制定された連光寺村御猟場規則・御猟場監守規則も、このとき廃止された。
 あらたに制定された「御猟場規則」は、全部で九か条あり、内容は区域の明示、各御猟場の主要鳥獣魚類、御猟場にとっての有害動物種類の決定、駆除、狩猟、漁猟者の特定などである。狩猟者は、主猟局官吏とその助手と勅許(天皇の許可)されたものに限定されているが、旧「連光寺村御猟場規則」には記されていた、狩猟者としての天皇は記されなくなっている。新規則の内容の多くは、全国統一の規則であるため具体的ではなく、例えば、駆除方法、期間なども主猟局長が定めると記されているのみであるが、旧規則と比較し大筋の内容に変更はない。しかし、全体的に御猟場に関わる諸事務についての主猟局長の権限、責任を強調しており、天皇の御猟場というよりも、宮内省主猟局の御猟場というイメージを強く与えるものである。
 また、「御猟場職員職務章程」は全部で一一か条ある。旧「監守規則」と比較して、職名が変わっている以外は、そこに記された職員の職務内容に大筋の変更はない。主なものをあげれば、主猟局官吏や勅許されたものの狩猟準備、鳥獣類の繁殖調査、有害鳥獣の捕獲、密猟者取締などである。変更点は、これまで御猟場職員として設置されていた監守長―監守―見回のほかに、鵜匠小頭―鵜匠が新たに職員として設置され、鳥獣、魚類の繁殖保護に従事することになっている。また御猟場によっては、鷹の餌となる小鳥を捕獲する餌差(えさし)を置き、見回とともに監守を補助することとした。これらあらたに設置された職員も、担当区の巡視活動が規定され、密猟者などの取押さえ時の監守長、監守への急報が規定されている。
 このことは、各地で、この時期の御猟場区域民の鳥獣被害に対する不満や、密猟者が絶えない状況への対処として、御猟場監視体制を強化するねらいもあったものと思われる。
 こうした全国統一の御猟場規則等の制定は、例えば、明治三十八年(一九〇五)、江戸川筋御猟場では、御猟場指定解除を主張する人々からの陳情書が提出されるなど(『越谷市史』二)、日露戦争後、各地の御猟場で区域民の反対運動が盛り上がりつつある状況への一つの対処であったと考えられる。制定の目的としては、その結果、出てくる責任追及が直接天皇に向かわないように、宮内省主猟局の権限、責任を明確にしておくことにあったと考えられる。