指定解除の請願

326 ~ 330
このように、宮内省主猟局としても連光寺村御猟場指定は、問題なく継続更新へ向かうものと考えていたようだが、御猟場内の内実は、先の監守長富沢政恕の報告とは食い違っていた。第一次更新の明治二十五年以降も、御猟場指定区域では鳥獣は繁殖し続け、それに比例して、被害も年々ひどくなっていった。特に零細農民の家をはじめ、中農の家でも、日露戦争の影響もあって生活困窮に陥ることも少なくなかった。そのため、先の継続請願書をくつがえすかのように、明治二十五年の契約請書期限が切れる前月の明治四十年二月十九日、御猟場指定解除を求める請願書が、従来から指定区域であった多摩村連光寺区馬引沢、乞田区の土地所有者が中心となって、東京府知事千家尊福に対し提出された(資三―254、表1―6―8)。この請願書では、御猟場指定以後の鳥獣被害について、田畑では穀物、そ菜類を食い荒らされ、特に陸稲、蕎麦などは、種を蒔くと、それをすべてかき掘られ、収穫が減少すると指摘している。また山林では、竹木葉、または樹皮を食われるために、その発育が妨げられると指摘している。山林被害は、この地域の産業である目籠や炭の原料の減少にもつながり、その原料を売ったり、自ら加工して売ったりしていた農民にとっては、貴重な現金収入の減少につながることであった。人口増加のために、開墾地を山林に求めようにも、山林跡地では、特に被害がひどくなるおそれがあり、不可能であるとの指摘もなされている。そして、従来の鳥獣被害手当としての下賜金は、わずかであり損害の補填には到底ならないとし、御猟場指定解除の請願をしている。
表1―6―8 明治40年2月19日付「御猟場御免ノ請願ニ付陳情書」署名者一覧
惣代 署名者氏名 所在地 富澤政賢の多摩村長の立候補に反対する決議書署名 主な経歴
増田善吉 連光寺区馬引沢
増田留五郎 連光寺区馬引沢
増田作造 連光寺区馬引沢
増田石治郎 連光寺区馬引沢
増田崎之助 連光寺区馬引沢 昭和初年:農会総代、区長代理
本多濱太郎 連光寺区馬引沢
増田為三郎 連光寺区民引沢 明治14年天皇鮎猟の撥網漁者
小形喜兵衛 連光寺区馬引沢 明治14年天皇鮎猟の撥網漁者
相澤喜三郎 連光寺区馬引沢
小形綱吉 連光寺区馬引沢
小形正平 連光寺区馬引沢 大正5年:連光寺区会議員
相澤兵吉 連光寺区馬引沢 大正9年時:第三区区長代理
(*代表の一人) 大正14年~昭和4年:村会議員
相澤常三郎 連光寺区馬引沢
相澤良助 連光寺区馬引沢 大正2年~10年:村会議員
平楽兼次郎 連光寺区馬引沢
小形利左衛門 連光寺区馬引沢 明治初年:伍長
明治23年:「衆議院議員選挙人名簿」
小形政治郎 連光寺区馬引沢 明治14年天阜鮎猟の撥網漁者
平楽泰治郎 連光寺区馬引沢
小磯惣吉 乞田区 明治29年時:米穀仲買、繭生糸仲買
佐伯利平次 乞田区 昭和17~22年:村会議員
高橋源助 乞田区
高橋常吉 乞田区
高橋大五郎 乞田区
小磯由蔵 乞田区
小磯善治郎 乞田区
小磯芳三郎 乞田区 大正10~14年、昭和12~17年:村会議員
馬場熊五郎 乞田区
馬場安左衛門 乞田区
別所常蔵 乞田区
小磯キン 乞田区
廣田浦吉 貝取区
「資料編三」No.254、多摩市行政資料より作成。
注)「主な経歴」の欄は、市域内諸家文書より作成。

 この請願書は、表1―6―8にも示したようにその署名者に、明治二十三年(一八九〇)の衆議院議員選挙人名簿(資三―188)登録者、またのちの村会議員や区長、区会議員となるものなどもおり、中農地主層が中心となって提出されたものと思われる。請願書に、「細民」=零細農民層への配慮も記されていることから、この中農地主層と思われる請願者のバックには零細農民や小作人の存在も考えられる。また、富沢政恕をはじめとする御猟場職員となっている人々の署名はない。興味深いのは、この署名者の中に、大正九年(一九二〇)の富沢政賢の多摩村長の立候補に反対する決議書への署名者が一一人も含まれていることである。同決議書署名者のおよそ半数が指定解除請願書に署名しているのである。また、解除請願署名者の住居が連光寺区馬引沢地区、乞田区を中心としている(貝取区住民一人も含む)のに対して、監守長の富沢政恕の住居は連光寺区の旧本村地区であることから、多摩村内の地区間対立が背景にあることも想定できる。
 以上のことから考えると、この請願書を提出した中農地主層は、多摩村内にあって、中心的に御猟場管理や村政を親子で担ってきた富沢家に批判的な立場にあるグループではなかったかと思われる。日露戦争による村内疲弊もあって、富沢家批判や地区間対立の問題を背景に、積年の御猟場による生活規制、鳥獣被害への反発が表面化した結果、今回このような請願書を提出することになったのであろう。
 また、この時期はすでに明治三十七年(一九〇四)十月五日に政恕の息子政賢が多摩村長を退き、東寺方出身の佐伯太兵衛が村長となっていた時期であり、富沢家の村政への影響力が低下していた時期である。その上、政恕とともに御猟場管理、運営を支えてきた監守市川蔵之助(黒川)、見回市川邦太郎(黒川)が、明治三十九年(一九〇六)十月に辞職している。その後任も決まらないうちに、その翌年二月四日には、監守佐伯英三郎、見回小形清左衛門が、あいついで死去している。監守の佐伯は乞田区在住であり、見回の小形は連光寺区馬引沢在住であり、それぞれの在住地区に対し御猟場管理面で影響力をもっていた。この両人の死後、二月十九日両人の担当地区の馬引沢、乞田区住民から指定解除請願書が出されたことを考えると、監守、見回の辞職や死去は、御猟場管理にかなりの動揺をもたらしたことがうかがえる。政恕が二月十七日、主猟局長に差し出した「御猟場職員補欠願書」には、相次ぐ辞任、死去により監守二人、見回一人となり、御猟場「取締上差支」える状況であることが述べられている。残る監守長の政恕も含め、監守、見回たちも高齢化が進んでおり、御猟場区域住民への富沢家の影響力も低下していた時期であったことも解除請願書が出される背景にあったことが考えられる。
 指定解除請願書提出後、それに署名した連光寺区馬引沢や乞田区、貝取区住民への御猟場監守長富沢政恕の対応は不明である。しかし、「富沢日記」によれば、この請願書提出の翌月、まさに契約期限が切れる前日の三月三十日、連光寺区下川原、馬引沢、本村惣代人が「御猟場之義ニ付調印ニ来ル」とあり、指定解除請願の中心であった馬引沢住民も指定継続更新に同意したことがうかがえる。乞田区や貝取区住民にも同様になんらかの説得がなされ、更新に対する同意を得たものとみられる。