そして、明治四十年四月、連光寺村御猟場は、ほぼ従来の区域面積のまま指定更新されることになった(表1―6―6)。富沢政恕の「多摩村御猟場」構想は実現をみず、また馬引沢や乞田区、貝取区住民の指定解除要求も認められず、とりあえずは現状維持を保ったのである。
しかし、同年六月に至っても、御猟場監守は二人、見回人は一人に減ったまま後任も決まらなかった。取締の上からも、また皇族や宮内省関係者が猟に来る事前の準備や当日の職務等も差し支える状況であったことから、同月に再度、主猟局監守長富沢政恕から主猟局長戸田氏共に監守の欠員中一人の補充、見回人も定員の三人になるように願っている。しかし一方で、八月には、監守の小金忠五郎(連光寺区本村)が老齢を理由とし辞職願いを出した。その上、同月二十九日には政恕自身が死去し、監守長まで欠員が出ることになった。
九月十二日、一旦、監守長の事務取扱権限、関係書類は監守の浜田源助(貝取)に引継がれた。翌日には、監守の小金忠五郎の辞職が認められ、御猟場職員は、監守(兼監守長事務取扱嘱託)浜田源助、見回進藤市左衛門のみとなった。およそ一か月ほど浜田が監守長事務を行ったが、翌十月二十二日には、宮内大臣田中光顕により、富沢政賢が主猟局監守長(准判任大等)に任命され、同月二十九日には、先に引渡した監守長事務関係書類を浜田から引継いだ。政賢が監守長に就任したが、当面、監守の浜田と見回進藤との三人によって御猟場の管理、運営がなされていくことになった。連光寺村御猟場区域面積の現状維持が保たれたとはいいながら、御猟場職員の相次ぐ辞職、死去をきっかけに、欠員が出たままであり、宮内省から職員補充についてはなおも認められなかった。
こうした宮内省の対応の遅れは、この時期の労働争議の多発、天皇権威の動揺という社会状況に対処するため、宮内省官制改革が進められていたからと思われる。御猟場は、事務的には宮内省が管理するものであったが、原則としては天皇のものである。そのため、御猟場による鳥獣被害の苦情は、直接天皇に対してはなされないものの、現実的には天皇に責任が求められることになりかねない。都市部を中心にしておきた労働争議多発の上に、御猟場指定解除要求が出始めたことから、政府は天皇に直接責任が及ぶことを危惧しはじめたのであろう。明治四十年(一九〇七)十一月、皇室令として宮内省官制が公布されると、宮内大臣は皇室一切の事務について輔弼(ほひつ)の責任をとることと規定された。翌明治四十一年一月一日には、御猟場事務を担当する主猟局を主猟寮と改め、宮内省内での位置を格上げしているが、これは御猟場に対する責任、権限を強化する意味があったものと思われる。こうして、この時期の宮内省官制改革が終わると、ようやく、同年一月には御猟場監守の欠員補充が行われ、小金寿之助(連光寺)と佐伯芳雄(乞田)が新たに任命された。翌二月には、新倉実太郎、小川信太郎、伊野富佐次が見回に任命された。監守長富沢政賢のもと監守は三人、見回は四人となり、御猟場管理機構の強化が計られた。
明治四十一年五月には、監守長富沢政賢は多摩村長に返り咲いた。政恕が生前に描いた「多摩村御猟場」構想は実現しなかったが、連光寺村御猟場は、多摩村の大半を占めており、監守長の政賢が天皇権威を背景としながら村長ともなることは、村内地区間の対立を解消し、政賢を中心に行政村としての多摩村を統一的に掌握し、地方改良運動をすすめるのに有効な手段となる可能性があったといえよう。