その後、同年十月四日には、多摩村役場において、旧連光寺村御猟場区域に狩猟区を設定することを目的に有志会が開かれている(前掲文書)。しかし、同月中に、富沢政賢を総代とする土地所有者一五人が、「聖蹟」として永遠に保存することを目的に、旧連光寺村御猟場区域を禁猟区とする願いが出され、やがて、禁猟区が旧御猟場区域に設定された。大正八年(一九一九)には、農商務省農務局に鳥獣調査関係事務を所管する機関が設置され、禁猟区でもあった多摩村連光寺に、同省直轄の鳥類調査実験場が設置された(図1―6―8)。この実験場は、ヨーロッパ種、中国種鳥類の孵化、飼育や、日本の在来種にヨーロッパ種・中国種の交配試験をすることを目的とした施設であり、当時、この種の実験場としては日本で初めてのもので、昭和十一年(一九三六)四月、鳥獣実験場と改称された(資三―302、『農林省鳥獣実験場要覧』農林省林野庁造林保護課、「官報」二九〇七号 大正十一年四月十四日付)。同年十二月二十三日に至り、農林省によって許可を得た多摩村は、一部地域を除き、村内一円に猟区を設置した。この猟区を入猟期日などを限って、有料で一般狩猟者に開放することによって、多摩村では村財政の更生を計ろうとしたのである(資四―100・101)。
図1―6―8 鳥獣実験場(昭和11年頃撮影)