御猟場の廃止とその後

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皇室の経済的基盤の確立、立憲制確立、条約改正交渉の進展によって、当初の御猟場設置の目的、性格、機能(一編三章四節)の意味も薄れはじめていた。天皇が連光寺村御猟場に絶えて来なくなっていたことも、こうした動向の中で捉えることができるだろう。このため、明治四十年(一九〇七)二月以降、表面化はしなかったものの、地元の指定解除の願いを押し切ってまで維持していくことへの疑問も宮内省内では出はじめていたと思われる。明治四十年以降、皇太子や皇族、宮内省主猟寮職員たちが御猟場に来て、天皇の兎狩天覧のように大規模なものではないが、猟犬をともなった銃猟や囮(おとり)を使った鳥猟などの狩猟や鮎猟をすることはしばしばあった。明治四十五年(一九一二)、明治天皇が死去した後も、連光寺村御猟場は存続し、そうした狩猟が続けられていた。しかし、御猟場設置当初からの唯二人の職員であった監守の浜田源助、見回りの進藤市左衛門があいついで辞職、死去した翌年の大正六年(一九一七)五月十一日、主猟頭事務取扱戸田氏共から連光寺村御猟場を六月三十日限りで廃止するとの達があった。六月二十八日、監守、見回らによって御猟場区域を示す標杭が撤去された(伊野弘世家文書)。この後、職員の解任、特別手当や恩給下賜が順次行われ、名実ともに連光寺村御猟場はなくなった。
 その後、同年十月四日には、多摩村役場において、旧連光寺村御猟場区域に狩猟区を設定することを目的に有志会が開かれている(前掲文書)。しかし、同月中に、富沢政賢を総代とする土地所有者一五人が、「聖蹟」として永遠に保存することを目的に、旧連光寺村御猟場区域を禁猟区とする願いが出され、やがて、禁猟区が旧御猟場区域に設定された。大正八年(一九一九)には、農商務省農務局に鳥獣調査関係事務を所管する機関が設置され、禁猟区でもあった多摩村連光寺に、同省直轄の鳥類調査実験場が設置された(図1―6―8)。この実験場は、ヨーロッパ種、中国種鳥類の孵化、飼育や、日本の在来種にヨーロッパ種・中国種の交配試験をすることを目的とした施設であり、当時、この種の実験場としては日本で初めてのもので、昭和十一年(一九三六)四月、鳥獣実験場と改称された(資三―302、『農林省鳥獣実験場要覧』農林省林野庁造林保護課、「官報」二九〇七号 大正十一年四月十四日付)。同年十二月二十三日に至り、農林省によって許可を得た多摩村は、一部地域を除き、村内一円に猟区を設置した。この猟区を入猟期日などを限って、有料で一般狩猟者に開放することによって、多摩村では村財政の更生を計ろうとしたのである(資四―100・101)。

図1―6―8 鳥獣実験場(昭和11年頃撮影)