多摩村における合祀の特色

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政府は明治三十九年(一九〇六)、神社合祀(神社合併)を政策として実行することを表明した。政策の目的は、それによって神社経営の充実をはかり、神社崇敬の発展をめざしたものであったが、同時に町村民の神社への信仰を合祀先の神社に集中させることで、行政町村の精神的中心をつくりだそうとしたものでもあった。一編六章一節にみた、当時の地方改良運動の一環としても重視されていたのである。
 多摩村で合祀が確認できるのは、明治四十三年(一九一〇)九月十五日、落合地区で村社白山神社への無格社天神社の合祀決行(資三―279)、明治四十四年六月二十八日、乞田地区で村社八幡神社への無格社神明社の合祀決行(資三―280)、明治四十五年三月八日、東寺方地区で村社山神社への山王社・稲荷社の両無格社の合祀(「御由緒 山神社熊野神社」太田伊三郎家文書)、以上三地区の場合のみである。このことからわかるように、合祀により行政町村の精神的中心をつくりだすということは、多摩村の場合はまったく実現されていないといえる。村内の各地区の代表的な神社(村社)への小社(無格社)合祀でさえきわめて部分的なものであり、まして村社クラスの神社を、各地区をこえて多摩村内で合祀してまとめようとするような状況ではもちろんない。
 これは合祀を推進する東京府をはじめとした行政当局が、合祀政策に消極的であったことが大きいと思われる。東京府における神社減少率(明治三十一年~大正五年)は全国での三九パーセントに対し、二五パーセントと大きく下回る(櫻井治男『蘇るムラの神々』)。また多摩村自体も積極的に合祀を推進した形跡がまったくみられないのである。