第一、政策対象としての神社把握の問題。合祀の行政上の手続きにおいてまずやらねばならないことに、地元で合祀の協議をまとめて合祀願書を出願し、府県知事の許可をうけるということがある。この手続きをふんだ上で合祀は実行されるのである。乞田地区での合祀の場合、明治四十四年一月二十三日に合祀願書と明細帳脱漏編入願が東京府知事宛に提出され、両願書ともに六月十三日に許可、二十八日に既に述べた如く合祀が決行される(資三―280を含む「参考書綴込」太田伊三郎家文書)。ここで注目したいのが明細帳脱漏編入願である。これは、合祀予定の神明社をいったん無格社として明細帳(公的な登録名簿)に編入するものである。合祀政策は、あくまで当局が明細帳記載という形で公認した神社を対象としており、それ故にこうした措置が必要になったと思われる。だが、ここで問題となっている神明社はもともと「雑社」(無格社)として記載があり(資三―116他)、合祀時、基礎帳簿である明細帳に不備があった可能性が考えられる。実際、この当時の多摩村役場「社寺明細帳」(明治三十三年、多摩市行政資料)には神明社の記載は確認できないのである。また、東寺方地区で合祀された山王社と稲荷社も、それ以前に「雑社」(無格社)として記録があるにもかかわらず(資三―120他)、この明細帳には確認できない。合祀の際は、やはり明細帳脱漏編入願を提出したと考えられる。他にもこの明細帳には脱漏していると思われる無格社が多くある。つまり、合祀を政策的にすすめる上で最も重要な基礎データの把握が、多摩村をはじめとする行政当局にはそもそも困難な状況だった、ということになろう。
第二、各地区における神社組織の複雑さ。実は多摩村各地区の殆どは、各地区村社を中心とした精神的にひとまとまりの領域、とはいえないのである。多摩村の各地区の殆どが、その内部に存在する生産や生活上のための独立性の高い社会的なまとまり、そうした小単位の複合体であり、それぞれ個性的な内部構造を示しているのである。(通一 六編一章、「民俗編」二章、市史叢書(1)(7))、このことが合祀実行を阻む要因になっていると考えられる。これを落合地区を例に具体的にみておこう。
図1―6―10は、明治後半期の落合地区の神社のまつられかた、組織のされかたを示したものである。落合地区全体でまつられる白山神社が村社である以外は、すべて「雑社」(無格社)の扱いである。落合地区は五つの完結性の高い「組」(コウジュウ)を基礎単位とし、中間単位(近世の村域)をはさんで、ピラミッド的なしくみで落合地区としてのまとまりをつくりあげている。神社はほぼこれらの単位ごとにまつられ、その総代人(代表者)の選ばれ方にピラミッド的なしくみが確認できる。これに加えて多くの総代人は兼職しあうため、このしくみは有機的なものとなっている。組―唐木田の稲荷神社総代を例にとると、三人いる総代のうち横倉作次郎は中間単位―上落合の秋葉社の総代、横倉戸市は区―落合の白山神社の総代でもある(図1―6―10で使用した総代人名簿による)。落合区の人々の神社信仰は「組」の無格社を中心に重層化しており、村社・白山神社は、こうしたゆるやかなまとまりとしての落合区を、その信仰の領域としていたのである(なお、この「組」を基礎単位としたピラミッド的なしくみは青年集団の組織でも確認できる―一編六章四節)。
図1―6―9 落合地区山王下の稲荷社
(瘡守稲荷)昭和47年遷宮以前
図1―6―10 明治後期・落合地区内神社の重層的構造
白山神社に合祀されたのは天神社なのだが、以上のしくみを念頭におくと、青木葉に位置した白山神社に対し、いわばそのお膝元の「組」青木葉の中心神社の一つだったものを、やっと合祀しえたにすぎなかったことがわかる。そしてこの合祀社さえも戦後の昭和三十二年(一九五七)、青木葉の中心神社として再びもとの場所にもどされることになる(「民俗編」五章)。
図1―6―11 現在の青木葉・天神社
他の地区の神社の場合はまた異なる特徴をもつが、落合地区にみたように地区内に人々の精神的中心となる神社などの有力な宗教施設が複数存在し、それが複雑な構造をつくりあげていたこと自体は、多くの場合共通しているのである。これでは、よほど郡や府などが強力に行政指導などをしないかぎりは、合祀を大規模に行うことは不可能だろうし、また、強制的に合祀をしたところで地域住民の強く、そして根強い反発をうけることになると思われる。