では、神社は多摩村のまとまりを強化するうえで何の役割も果たさないかといえば、それは不正確である。この点で考えておきたいのが、郷社小野神社の神主太田正寿(まさじ)の役割である。彼は大国魂神社(府中市)の主典をつとめていたが、明治三十七年(一九〇四)四月に、父太田靱之助(一編一章五節参照)が社司をつとめる小野神社の社掌を兼務することとなる。明治四十一年(一九〇八)十二月には大国魂神社を退職、靱之助の後継者として小野神社社司となる一方(明治四十三年)、靱之助が兼務していた多摩村内の村社の社掌を引き継いでゆく。明治四十二年に白山神社(落合)・八幡神社(乞田)・熊野神社(関戸)、明治四十三年に春日神社(連光寺)の社掌となっている。また、明治四十四年十二月十九日には森田翁蔵辞職後の村社山神社(東寺方)の社掌となった(以上「萬ひかへ簿」太田伊三郎家文書他)。つまり、明治末年の多摩村の主な神社の神主は太田正寿だったことになる(なお、和田地区の十二神社(村社)は、七生村(日野市)百草の村社八幡神社社掌である由木民也が兼務していた)。多磨村(府中市)では合祀政策への対応として一村一神主制をとったが(『府中市史』下巻)、それに近いものが明治来の多摩村にも実現していたことになろう。前掲「社務所日誌」(明治四十四年)を見ると、太田正寿が兼務各社の祭礼に飛び回り、各社の会計管理を行っている様子がわかる。なお、落合、乞田、東寺方地区の合祀が行われたのはいずれも太田正寿が社掌について以降のことで、特に東寺方地区では山神社社掌に就任後まもなく合祀を決行している。太田正寿は多摩村内の合祀を推進していたのだろう。そして、これが大正三年(一九一四)十二月二十四日の白山神社(落合)と八幡神社(乞田)社掌辞職(「萬ひかへ簿」太田伊三郎家文書)の遠因なのかもしれない。