明治三十九年(一九〇六)四月の勅令により、府県郷村社へ神饌幣帛料(祭典の供物費用)を地方公共団体が支出(供進)することが可能となる(郷社は郡(市)、村社は町村(市))。事実上、府県社以下神社経費の公費による一部負担である。この勅令は前述の合祀問題と密接な関連があり、実際、供進指定の為の基準が合祀に大きな効果をもった。
多摩村では明治四十年度予算に初めて神饌幣帛料三〇円が計上され、村内すべての村社に五円ずつ支出することが計画された(「村会議事録」)。だが、実際に支出されたのは五円、すなわち一社のみであった(資三―表三)。この一社とは連光寺地区の春日神社のことであり、同年七月十六日に神饌幣帛料供進神社に指定され(「社寺明細帳」多摩市行政資料)、九月二十九日の社の祭日には、村長佐伯太兵衛が神饌供進の使いとして参向した(「富沢日記」)。
しかし他の村社は指定されなかった。これは直接には指定条件を満たすことができなかったためと考えられる。これ以降、八幡神社(乞田)・白山神社(落合)・熊野神社(関戸)の各村社で設備充実の動きが活発になるが、その理由はここにあるのだろう。そしてこの動きと乞田、落合両地区での合祀が同時期だったところに、神饌幣帛料供進指定問題と合祀問題の結びつきが見てとれる。以下、落合地区の白山神社にこの設備充実の動向を具体的にみておこう。
白山神社では、明治四十三年(一九一〇)四月十五日に拝殿の位置移転の認可を申請、六月二日に許可される。七月十二日、移転の際障害となる立木伐採を出願、翌年二月十六日移転を完了した。続いて四月十五日には社殿の玉垣新築許可を出願、これも許可となった(資三―278を含む「参考書綴込」太田伊三郎家文書)。図1―6―12は、こうして設備充実を図った白山神社の姿である。そして明治四十五年二月二十五日、白山神社の神饌幣帛料供進指定の申請に至る(資三―282)。しかし六月六日、社掌太田正寿は不備の箇所があったとして書類の下げ戻しを願い出、大正三年(一九一四)二月に再度供進指定の申請を出した(「参考書綴込」太田伊三郎家文書)。だが、それは実現しなかったようだ。大正五年度の村費決算での神社費は一五円(資三―表4)、一方、同年度春日神社の神饌幣帛料も一五円なのである(太田伊三郎家文書)。
図1―6―12 大正3年当時の白山神社(落合地区)
このように、多摩村では春日神社を除く各地区の村社が神饌幣帛料供進指定をうけることは結局困難であったといわざるをえないだろう。結果として、多摩村の各地区村社には、村から補助をうける特別扱いされた春日神社と、それ以外の神社という格差が生ずる事となった。春日神社が富沢村長の出身地区である連光寺に位置していることを考えると、多摩村としての求心力を形成しようとする何らかの意向がそこに働いているようにも思えるが、はっきりしたことはわからない。
小野神社は郷社のため、多摩村ではなく南多摩郡からの供進となり、郡長が供進使であった(資三―283)。その指定は明治四十五年(一九一二)である。しかし、小野神社からの指定申請は明治四十年(一九〇七)八月のことであり、なかなか指定されなかったところに、やはり指定基準の問題をうかがうことができよう。明治四十四年(一九一一)、一ノ宮地区の共有地二一町あまりが神社基本財産に寄付されているが、その翌年に指定が実現したところをみると、この共有地寄付は、指定基準を満たすためだったと考えられる(以上、太田伊三郎家文書による)。
神饌幣帛料の供進額は僅かなものである。小野神社の明治四十五年予算収入額中、年額一〇円は八・五%にすぎない(「明治四十五年度予算決算台帳」太田伊三郎家文書)。しかし、村長や郡長が供進使として参拝することに象徴されるように、国家が村社に至る社格のある神社を公に保護すべき存在と明確に位置づけた点が重要である。そしてこれに加えて、神社会計は行政官庁の監督下におかれることとなる。神社への会計法適用指定の問題がそれである。会計法とは、明治四十一年(一九〇七)七月の内務省令「神社財産登録管理会計ニ関スル件」第三章「会計」規定のことで、その適用の指定を受けた場合、年度収支予算決算等の作成と(郷社以下の場合)郡市長による認可、基本財産蓄積などが義務づけられた。多摩村では郷社小野神社(一ノ宮)、八幡神社(乞田)・山神社(東寺方)・熊野神社(関戸)の各村社が、明治四十一年に会計法適用神社に指定されたことが確認できる(太田伊三郎家文書)。春日神社(連光寺)・白山神社(落合)の両村社は、予算決算を作成していることが太田正寿の「社務所日誌」(明治四十四年、太田伊三郎家文書)に確認できるので、やはり指定を受けていると思われる(和田地区の村社十二神社については不明)。村社に至る神社への公費補助という形での国家の保護策は、裏返しに管理と統制をともなうものだったのである。