文化財としての社寺

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ところで、社寺は国家にとって宗教行政だけでなく、文化・美術行政の対象でもある。すなわち社寺とその宝物は国家にとって保護管理すべき文化財の重要な要素なのである。そして、明治二十年代の文化財行政の中心にいた九鬼隆一によれば、欧米先進国のように文化財という「国の宝」を保護公開することを通じて、日本固有の「伝統」の中心とされる天皇権威を強化し、愛国心を涵養することが意図されていた。明治二十一年(一八八八)九月二十七日、九鬼隆一を委員長に臨時全国宝物取調局が設置され、宮内省・内務省・文部省のスタッフによる文化財総合調査がスタートする(高木博志『近代天皇制の文化史的研究』)。この調査の一環として南多摩郡では、明治二十二年十月十八日、郡下の「神社寺院及人民所蔵ニ係ル宝物」調査にかかわる通達が村長宛てに出されている(富沢政宏家文書)。九鬼がこの調査で郡下を巡検するはずなので、予め別紙ひな型に従って寺院什宝目録を調製しておくこと、なるべく「人民所蔵ノ物」も検閲するので予め申立てをさせておくこと、とある。
 明治二十六年(一八九三)には「社寺宝物古文書等…取調」が多摩村で行われている。五月二十日、富沢村長は各社寺とその総代人に宛てて、宝物等記載書類を同月二十四日を期限に提出せよとする通達を出した(石阪好文家文書)。これはどうも県が命じた調査らしい。宝物古文書古器物のほか、貴重で由緒ある物件記載が求められていた。これに対し、六月三日に小野神社の太田靱之助は取調書を提出している(富沢政宏家文書)。
 明治二十年代の文化財政策の法的帰結が明治三十年(一八九七)の古社寺保存法の制定であり、大正八年(一九一九)に史蹟名勝天然紀念物保存法が制定されるまで、文化財行政は国家の法制度上、この一法律のもとにあった(高木前掲書)。この時期にあたる明治四十四年四月三十日、小野神社に内務省神社考証嘱託の宮地直一(なおかず)が調査にきている(前掲「社務所日誌」)。宮地は、昭和初期の神社行政に大きな影響力をもつことになる人物で、実証的な神道史学の先駆者でもある。彼は太田正寿に対し、「本寺仏ヲ神社ヘ取戻スコトヽ朱印写及棟札ヲ登録申請スルコト」などと注意した。「本寺仏」とはおそらく、小野神社の本地仏(祭神の本来の姿とされる仏)のことで、明治初年の神仏分離で別置されていたのだろう。それを取り戻せというところに政策上の時代差が象徴されている。また、「朱印」は将軍による寺社所領の承認・確認状、「棟札」は建築修理の上棟式の日付や工事関係者氏名が記された板札のこと。こうした宝物古文書の登録申請とは、直接には内務省の神社政策の一環なのだろうが、上述の古社寺保存法とも無関係ではあるまい。
 文化財保護行政にみられる国家による文化統合という問題は、この後、史跡名勝保存策の形でさらに展開する。このときの多摩村の動向については、一編九章三節で触れることになろう。