富沢村政下の学校統一

344 ~ 346
明治四十年(一九〇七)三月に第三次小学校令が一部改正され(翌年四月実施)、義務教育年限がそれまでの四年から六年に延長された。従来の高等科二年分が義務化されたことになる。これにより義務教育制が確立したが、それは小学校の統廃合を促進することにもなる。一方、明治四十三年に修身など国定教科書が改定され、国民の天皇と国家への忠節を強調する家族主義的な国家観が、教育内容に導入されることとなった。
 この時期、多摩村の学校教育を考える上で重要な問題は、村内の小学校統一による多摩尋常高等小学校の誕生である。それは、明治四十一年(一九〇八)九月末に村長に返り咲いた富沢政賢のもと強力にすすめられたが、円満に村民の理解を得られたわけではなく、激しい抵抗が兆民学区と処仁学区の人々の間に存在した。統一の実現はある種の強引さをともない、村政の動揺を招くこととなる。村長と役場側が推進する、村内に一つの尋常高等小学校という案(以下「統一」案と略記)に対し、反対派は高等小学校のみ統一、尋常小学校六年は現状のまま三校に据え置く案(以下「現状維持」案)を対置していた。以上を確認した上で、資三―273、多摩村役場「小学校制度改善 役場建築ニ関スル書類」(多摩市行政資料)、富沢政宏家文書(No.315)などにより、その紆余曲折の過程をまずみておこう。
 明治四十二年(一九〇九)三月二十三日、第二回村会(二日目)における予算審議の委員会意見としての「統一」案提示が、村内の学校統一実施への動きとして確認できる最も早いものである(「村会議事録」)。これに対して村会では異議は出ておらず、ここに「統一」案は村の基本方針として明確に据えられ、村会・村議レヴェルでの合意が成立したといえよう。この直後より、周辺町村で実行された学校統一状況に関する調査が実施された(『多摩町誌』)。翌明治四十三年中に提示されたとされる村長の「統一」案(資三―320)も、この延長線上に考えることができるだろう。
 以上をふまえるかたちで、明治四十四年(一九一一)から計画案の具体化がはかられる。その最初が一月十五日、当時の役場近くの観音寺(関戸)で開かれた集会である。この会合は、村長と役場側が具体的計画案の策定にあたり、「統一」案の方向で村内各地区の有力者の同意をとりつけようとしたものと考えられる。この点で同集会は多摩村学校統一問題の実質的な出発点といえる。そしてこの会合後の二月七日、具体的計画案「本村立小学校制度改善ノ件」の村会提出に至る(資三―272)。それはまさに「統一」案の明確な提示であった。

図1―6―14 多摩村役場「小学校制度改善 役場建築ニ関スル書類」

 だが村長・役場側の「統一」案は、計画が具体化するこの初発の時点から難航していた。先の一月十五日の集会では「現状維持」案が支配的であり、役場側の「統一」案との折り合いがつかないままだったのである。つまり二月七日の村会に提出された「統一」案は、村内各地区レヴェルの有力者の同意を得られてないままのものだったといえる。
 そして、この計画案提示をうけ、二月十一日から翌明治四十五年二月二十日までに六回の調査委員会が開かれる(委員長は助役の藤井保太郎)。この委員会では役場の「統一」案の線で計画が詰められ、その検討結果は二月二十一日、村会に提出された。もともとこの委員会自体は、明治四十四年一月十五日の集会で意見の折り合いかつかなかったために(先述)設置が決まったものであるが、「委員ハ区民(落合区民のこと)ニ何等報告ナシ」とか、「秘密会」という非難があることを合わせ考えると、実際は村長と役場が主導権を握り、「現状維持」案を排除する形で委員会の検討がすすめられたといえよう。