こうしたなか、「現状維持」案を主張して委員会や役場に反対の意思を請願書の形で公然と表明したのは、兆民学区の人々であった。一回目は明治四十四年(一九一一)四月十二日、和田地区の伊野常吉他九七人により調査委員会宛てで、二回目は翌明治四十五年二月二十一日、同人他一二三人により村会宛てで提出された。すでに述べた通り、この二月二十一日という日は、委員会による計画案の検討結果が村会に提出された日である。このため、村長はこの二月二十一日の村会翌日、村会協議会を開催し調整をはかろうとする。ここで「統一」案に基本的な変更はないものの、尋常二年程度の分校を下川原と落合に設置する、という当初の案を変更し、処仁、兆民両小学校を尋常四年程度の分校として存続させ、かわりに先の二つの請願書を撤回させるという妥協案が提示された。請願書に関係した地区出身の村議が仲介となり交渉の結果、両請願書は二月二十三日に撤回された。三月二日の村会と村会協議会で、役場側の「統一」案の最終的な方針確定がこの妥協案でなされ、学校名も決定した。即ち「多摩尋常高等小学校」―「第一分教場」(元処仁小学校)・「第二分教場」(元兆民小学校)の体制である。
だが、これは分校化される処仁、兆民小学校の学区の人々には受け入れがたいものだった。兆民学区の人々には、陳情書撤回のひきかえに「現状維持」案が実現される約束だったのにそうならなかった、と一種の裏切り行為と受けとめられた。そして反対運動は処仁学区に拡大する。同学区内の落合地区ではこの頃反対集会が度々開かれる一方、同地区の総代が建築費について説明を求めて村長を訪れたりしている。また、この二学区間の有志会合といったかたちで協力体制も取られるようになる。
三月十一日、落合地区の鎮守である白山神社境内に三百人あまりの人々がひしめいていた。役場の学校統一計画に反対する兆民学区の人々、そして処仁学区の一つの落合地区の人々の「惣集会」である。彼らは役場に「押奇(寄)セントスル」「契約」をまさに神前において行う。これはただごとではない。八王子警察署から巡査が派遣され数人(集会の総代と思われる)に出頭命令、という事態となる。だが、この容易ならざる事態も警察の介入もあってか、その後大きな騒ぎには至っていない。問題は一つのヤマ場を越えた感がある。
たしかにこの時期以降、役場側は着々と「統一」案実施にむけて準備をすすめている。三月二十三日には用地買収契約の成立が村会に報告された(「学務委員会決議録」多摩市行政資料)。多摩尋常高等小学校は五月八日に認可となり、とりあえず開校する(資三―287)。しかし、反対派の運動も終息したわけではなく、劣勢を挽回すべく根強く続けられていた。村長による計画の強引なとりまとめを批判、計画の再審議と延期を求めた三月十八日の村長宛請願は、兆民、処仁学区から三百人近くが署名した大規模なものとなり、四月一日には兆民学区の和田地区と、処仁学区の落合地区を中心とした代表者により、直接東京府知事に計画延期の陳情が行われるに至る。