統一問題と政治対立

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ところで、この段階の動向で見逃せないのは、五月の衆議院議員選挙を間近に控えていることを背景に、問題が政治的な党派対立の色彩を明確に帯びてくることである。先述の三月十一日の白山神社での集会以降、例えば処仁学区のひとつ落合地区では、村外の政治家や有力者との接触により反対派が現状打開を試みる状況が確認できる。
 こうしたなか、学校問題は役場側=政友会支持、反対派=非政友会系の国民党支持、という村内の政治党派対立の構図をとることとなる。小山光二(落合地区出身)宛の差出人不明書簡(衆院選直後か、小山晶家文書)によれば、衆院選当時、役場側は東京府郡部で圧倒的優位にある政友会の村野常右衛門を応援、反対派は国民党の高木正年を「主と仰ぎ」、和田・東寺方・一ノ宮の各地区(すなわち兆民学区)と落合地区(処仁学区の一つ)が、まさに高木の拠点だったという(特に和田地区が中心)。そして選挙を間近に控えて政友会側が選挙運動に「壮士」を動員するなど、「全村殺気に満」ちた状況であったようだ。五月十三日夜には、和田地区の国民党―高木派運動員が政友会―村野派運動員に暴行をうけるという事件が発生(『東京毎日新聞』明治四十五年五月十五日付)、選挙当日の十五日には、和田地区の選挙人は「有権(者)団体の一団を組織し村民並に巡査に擁せられて」投票するありさまであった。ちなみに、このときの衆院選挙では、高木は東京府郡部で村野ら政友会の候補をおさえてトップ当選である。
 この約一か月後の六月下旬から、役場の学校統一計画は実行にうつされていく。六月二十六日の村会での議決とその認可をもって学校建築が正式にスタートし(資三―287)、翌大正二年十月五日、貝取地区字二十号(現在の市役所敷地内)に新校舎が落成する(資三―320)。工費は約一万二〇〇〇円であった。この段階になると、反対運動の方は史料上確認ができなくなる。だが今まで見てきたことからしても、それは円満に解決したことを意味しているとは思えない。大正四年(一九一五)七月、役場による村民の財産差押えをきっかけに、学校建設による巨額の村民負担を批判する声があがる。学校統一後、大正初年においても問題は依然としてくすぶりつづけていたようである。

図1―6―15 多摩尋常高等小学校建築平面図