学校統一が意味するもの

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「統一」案の理由とされたものは次のようにまとめられる。義務教育年限延長による学齢児童の著しい増加のため、学校の施設拡充が急務だという課題がある。しかし、多摩村の現実はまったく逆に、その教育費が嵩むことで財政が年々膨張し村民負担に耐えられなくなりつつある。そこで、「不経済の極」である村内三校の尋常高等科併置を改め、多摩村に一校の尋常高等小学校を建設し、教育費を節約しつつ先の課題実現をはかる。確かに、本章一節にみたように、多摩村の財政において当時、教育費は支出の六割ちかくを占め、そうした支出を支える歳入の約半分を住民税=戸数割が占めていたのだった。
 しかし、問題はもう一つある。先に述べた明治四十四年二月の村会議案(資三―272)での「統一」案の説明によると、統一によって教育の振興充実をはかると同時に、「自治経営の確立」も目指されていた。ここには単に財政問題という以上に、多摩村単位に学校を統一することで複数学区による村内の割拠状態を解消、多摩村への人々の帰属意識を強化しようという意図がその背後にあると思われる。後年の史料だが、資三―320には多摩村の学校統一の意図として、明確にこの点が指摘されている。そして、この意図の存在を裏付けるものとして、当時の役場移転新築問題を挙げておこう。実は、村長・役場側では、学校統一計画とこの役場建設計画を表裏一体のものとして進めていたのである。
 役場建築問題は、明治四十三年(一九一〇)四月二十一日に決議された「本村役場建築の件」に始まる。これが、先述の明治四十四年一月十五日の観音寺(関戸)での集会で学校問題とともにとりあげられ、二月七日村会で学校問題とともに議案提出となる。そして同月十一日からの調査委員会は、この役場建築問題も扱ったのである。この委員会での検討過程で、役場は小学校敷地内に建設することになり、実際に貝取地区字二十号に小学校に隣接した用地(山林)を買収した。建設工事も同時にすすめられており、恐らく学校と同時期に落成したと思われる(以上「村会議事録」、「小学校制度改善 役場建築ニ関スル書類」多摩市行政史料など)。従来、役場といっても観音寺(関戸)ちかくの私宅を利用した程度のものであったことは、すでに見たとおりである。すなわち、多摩村に役場独自の建物(資三―286)が初めて誕生するのは、この大正二年頃のことなのである。今からすればちっぽけな建築物だが、無視できない意味をもつといえよう。
 学校統一問題は、教育費と子供たちの問題にとどまらず、多摩村という自治体を強固なものにしようとする、当時の多摩村政における方針の重要な一環だったのではないだろうか。多摩村を象徴する学校と役場の建物が、同時期に同じ場所に、山林を切り開いて出現するさまを思いうかべれば、そのことが多摩村民としての帰属意識の強化に大きな影響をあたえたことは容易に想像されよう。

図1―6―16 多摩尋常高等小学校

 もちろん、行政村の一体性を強めようとする動向自体は、本章一節にのべたように政府がこの当時、地方改良運動として全国的におしすすめていたことでもあり、多摩村に限ったことではない。しかしそうした強化策の中心が、多摩村の場合、なによりも小学校統一であったということが特徴といえるだろう。
 そしてこのことは、学区という元来各学校を維持することを目的とする地区(旧村)の連合が、当時多摩村内において社会的に大きな意味を持っていたことを裏書きしている。教育行政の比重が高く、それを住民税を軸に負担する構造をもつ多摩村政の中で、学区という地区の連合組織が「区分経済」(資三―273)としてつながりを強めていく過程は、すでにこれまで述べてきたとおりである。「現状維持」派が、経済負担や通学不便を理由に統一に強く反対する、その背景にあるのは、こうした学区の歴史の積み重ねであると考えられよう。さらに、当時の政治的な状況からすれば、政治党派対立の激化がからんで事態が紛糾してしまうことも、十分想定できたはずである。
 このように考えてくると、富沢村長があえてこうした危険性をはらむ学校統一を強引なまでにとりまとめ、多摩村を強化しようとする熱意は、相当なものであるといわねばならない。自治体強化が国家的に推進されたといっても、別に東京府や南多摩郡が、学校統一に関し多摩村に強力な行政指導を行ったわけではない。むしろ、ここで注目すべきなのは、多摩村を象徴する学校と役場の建物を作りだそうとする動きが開始されたのが、名望家として当地域に「君臨」しつづけてきた、ほかならぬ富沢家の当主富沢政賢が村長に復帰してまもなくのことだった、という事実だろう。日露戦争時の富沢政賢の村長辞職(明治三十七年、本章一節)、御猟場継続をめぐっての村内の動揺(明治四十年、本章二節)、そして政賢の父で、幕末維新期以来、明治期を通じ富沢家と政賢を支えてきた富沢政恕の死(明治四十年、同前)、といった形で富沢家の権威はゆらいでいた。とすれば、学校統一の断行を軸とする多摩村強化策に対する富沢政賢村長の熱意には、何よりも富沢政賢という新世代の名望家当主が、時代に必死に対応し脱皮を図っていこうとする意志を読みとることができるのではないだろうか。かつて、父政恕が思い描いていた、天皇権威を体現する御猟場と多摩村域を一致させ、その中心に富沢家が位置するという構想(本章二節)が新しい形でうけつがれ、ここに、行政村多摩村という領域は富沢家の名望を支える場としても明確に位置づけられたのだと思われる。この点で、先述した大正四年の財産差押えの際の学校統一批判の内容は、批判者の立場からのいささか極端な発言ではあるが興味深いものがある。そこには富沢政賢の村長復活を「名誉恢復」をはかるためだったとし、(その手段といえる)学校統一問題で村民が苦労させられているのだ、との認識が示されていたのである。