青年会の登場とその性格

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明治後半、義務教育を修了した多摩村の子供たち(男子)にとって重要だったのは、当時村内の各地区にあった青年会への加入と、そこでの活動であったと考えられる(ただ、当時の女子の動向は不明であり、今後さらなる調査検討が必要である)。
 青年会は近世以来のムラの若衆組や若連中を前史としてもち、自由民権期を経た明治二十~三十年代以降、各地に登場してくる。日露戦争後になると地方改良運動における通俗教育(社会教育)策として、こうした若衆組や青年会の組織化や統制、利用が政策的にすすめられ、青年会の村への一本化なども行われた。これによって国家は小学校卒業後から入営期までの期間の若者たちを把握しようとしたのである。
 多摩村において、若衆組の伝統の中から青年会がどのように生まれてくるのかについては、今のところよくわからない。しかし、青年会の成立とそれ以降の動向に関しては、落合地区の青年会(以下、落合青年会)の事例に具体的にあとづけることが可能である。以下、この落合青年会についてみていくこととしよう。
 落合青年会の創立は多摩村誕生の少し前、明治二十二年(一八八九)一月である。『南多摩郡農会史』で確認できる範囲では、上乞田(乞田地区の一部)の青年会とともに多摩村最初の青年会であり、南多摩郡全体でも最も早いものとして記録されている(表1―6―9)。この創立当初の落合青年会の性格をまず確認しておこう。同青年会最初の規約と思われる、明治二十二年の「落合区若衆規約書」(寺沢茂世家文書)の内容をみると、若者の風紀改善や自己修養といったものが中心となっていることがわかる。これは会の目的として、その後も一貫して追求されていく。一方、この時の規約にのみあらわれる要素として、区内の若者の加入義務を明示しない点が注目される。これは、自発的な有志団体であったことを示していると考えられる。近世来の若衆組の場合、華美放漫になってゆく若者たちと、これを統制しようとする村方(=大人たち)との間の緊張関係がいわれるが、これをふまえれば、落合青年会の創立は、自己の風紀改善を自らすすんでひきうける新しいタイプの若者たちが登場したことのあらわれ、ということになろう。なお、規約に「権利」「名誉回復」といった言葉が登場するのもこの時だけである。民権運動や学校教育の影響も含め、今後よく考えてみる必要があるだろう。
表1―6―9 多摩村各地区青年会の設立状況
明治22
(1889)
1月 落合地区
(落合青年会)
上乞田〔乞田地区東部〕
(上乞田青年会)
明治29
(1896)
1月 下乞田〔乞田地区西部〕
(菁莪(せいが)会)
明治30
(1897)
4月 和田・百草地区
(和田青年会)
明治43
(1910)
1月 一ノ宮地区
(一ノ宮青年会)
東寺方・落川地区
(東寺方青年会)
明治44
(1911)
1月 本村〔連光寺地区内〕
(多摩村青年農事奨励会)
明治45
(1912)
1月 関戸地区
(多摩村青年会関戸支会)
年不明 馬引沢・諏訪坂〔連光寺地区内〕
(多摩村南郭青年会)
『南多摩郡農会史』より作成。
注)( )内青年会名は農会史記載時(大正3年)のものと思われる。