明治後期の落合青年会

353 ~ 356
このような形で出発した落合青年会は、明治後期以降大きくその性格をかえていくが、この時期の落合青年会に関しては『往復雑件書類綴』(寺沢史家文書)が興味深い事実を教えてくれる。以下、この文書を軸にみていくこととする。
 まず、日清戦争後の明治二十九年(一八九六)十月二十三日に、会規約の大改正(「落合青年会申合規約書」)が行われている。創立当初からの特徴である若者の風紀改善といった目的に変化はない。しかし、この改正で青年会の団体としての性格が大きく変わった。落合地区の若者(男子)全員の青年会への加入義務が明記され、会員から互選される役員中、実働部隊である「幹事」五人は、この地区を構成する基本的単位=五つの「組」から各一人の選出とされたのである(落合地区の「組」については本章三節参照)。各年の幹事の出身「組」を確認すると、それは明確に守られている。また「会長」「副会長」は地区を二分する中間単位(近世の上落合村、下落合村)を考慮して選出されている。なお、この三役名は日露戦時、明治三十八年(一九〇五)の一部改正以後のことで、それ以前はそれぞれ「行事」「副行事」「周旋方」であった。以上、日清日露戦争期になると、落合青年会は地区の青年を網羅的に組織し、地区の中に明確に位置づけられる存在となったのである。
 一方、この時期には資金面での補強も行われた。落合青年会は明治三十四年(一九〇一)一月十五日に、「非常準備金」造成を決議、落合の若者たちは一二円あまりを寄付している。以後この財産の管理運営が行われていくこととなった。この準備金は、「社会ノ進歩世ノ新遷」「他村トノ交通頻繁」がもたらす経費増大に対応するためとされた。日本の資本主義確立期の青年会活動の活発化が窺えるだろう。三多摩壮士との関連が指摘される三多摩郡青年会の設立はまさにこの時期、明治三十一年(一八九八)のことである。(『日野市史』通史編三)。また、青年会活動の活発化については戦時下での役割増大が大きく関連するはずだが、多摩村における実態は不明である。
 日露戦争後になると多摩村内に続々と青年会が設立されていく(表1―6―9)。これは当時推進されていた地方改良運動と関連するのだろう。明治四十四年(一九一一)における、府知事の地方改良運動に関する通達では(『日野市史』史料集近代1)、青年会の政治的傾向を批判する一方、会員の風紀改善や「勤倹力行」「教育・産業等ノ開発」参画、青年会の夜学奨励などが訓示・指示事項としてあげられている。
 こうしたなか、落合の若者たちの活動の活発化と多様化がはっきりと確認できるようになる。落合地区の「組」の一つ、「中組」の有志八人による開墾出席簿が、明治四十一年(一九〇八)から大正四年(一九一五)にかけて残されている(峯岸虎夫家文書)。この八人をメンバーとした「中組青年有志共同事業」の申し合わせた規則(年不明、同家文書)によれば、これはどうも農事改良のための試作場作業のことらしい。また、明治四十三年(一九一〇)二月、地区の若者有志による「落合幻燈会」が区共有の「幻燈機」購入費寄付を募集している。発起人は高村仁平ほか一五人、寄付をした者は横倉作次郎他一〇三人で、その資金総額は三二円一四銭五厘であった。この「落合幻燈会」は、若者(男女)の風紀改善と修養、会員の娯楽と「講演談話の練習」、児童教育や衛生などのため、幻燈会・講演会・談話会を開催することを目的としていた。このように、当時の若者たちは単に自己の風紀改善といった問題にとどまらず、社会の中で活発で多様な活動を行っていたことがわかる。もちろん、地方改良運動の青年会利用策の影響があるのだが、むしろ若者有志の自発的で積極的な活動として取り組まれた点が注目される。特に「落合幻燈会」での「講演談話の練習」は、それが「交際上の巧否」をきめる自己表現の手段として必要だとされており、こうした要素は「大正デモクラシー」期の若者にとって大きな意味をもつことになるだろう。

図1―6―17 「往復雑件書類綴」落合青年会規約

 多摩村という行政村単位での青年会である「多摩村青年会」の設立は、小学校統一実現後の大正三年(一九一四)二月であり、これにより多摩村内の青年会が一本化された(多摩村青年会については一編七章六節参照)。各地区には「支会」が設置されたが、実態としてはまちまちであったようで、落合青年会の場合も完全には「支会」化されてはいない。翌三月には「落合区青年会別則」設置という形での規約改正が行われている。この規則は「別則」故か会組織の項目を欠くが、活動目的と内容として挙げられているものには、地区の公共事業や実用的事業への積極的進出が目立つ。実際、同年三月十一日に借受けた区共有地の開墾作業が、二十一日にほぼ全会員により行われている。その小作米代金の一部は前述の「非常準備金」造成費に加えられていく。また、多摩村の青年会設立直前の一月十五日、多摩村農会第一回農産物品評会にかかわり、先述した幻燈機も出品された(資三―249)。落合青年会主催の幻燈会は盛んだったようで大正元年の場合、二三回も行われている。
 以上、明治末の若者有志を中心とした社会的に有用な活動が、今や青年会の事業として定着している様子がわかる。それは地区内での青年会の公的地位の上昇をもたらしたであろう。そしてそれ故に、日露戦後の青年会における国家主義や軍国主義的な思想の鼓吹の側面も、村の人々に説得力をもってくると考えられる。ただし前述の如く、「大正デモクラシー」期につながる要素が生まれつつあったことにも注目しておきたい。
 なお、子供たちのその後については、同窓会も重要である。「向岡小学校同窓会」(後「向岡同窓会」)は明治三十八年(一九〇五)三月四日に、「竹馬同志会」(後「処仁学校同窓会」)は同年十月に発会している(「富沢日記」、富沢政宏家文書、『南多摩郡農会史』)。「兆民校親和会」ははっきりしないが、やはり同時期に発会したと推定される(伊野弘世家文書)。同窓会の活動内容は青年会に近く、「処仁学校同窓会」での共同試作など、実用的性格をもっていた。小学校統一後の同窓会のあり方は不明だが、ともかく明治末年以降、多摩村の子供たちは、学校卒業後もこうして学校とのむすびつきを保持することとなった。学校の影響力はこのような形でも村内に広がっていくのである。