村の行政概要

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大正九年(一九二〇)十月二十七日、南多摩郡役所による多摩村巡視が行われ、調査報告である「多摩村巡視調査事項」(多摩市行政資料)が報告された。それによると、九年十月の時点で、多摩村は戸数六七五戸、人口は四八三三人で、男二四七三人、女二三六〇人であった。住民の生活程度は、副業が発達しているため「生計困難ナリト認ムヘキモノ僅少」で、概して中等程度であると記されている。
 大正二年には役場庁舎が建設された。事務室、村会が行われる「議事堂」、それに宿直室と倉庫その他からなっている(資三―286)。庁舎建設は明治四十三年(一九一〇)から懸案事項であった(『多摩町誌』)。
 吏員は村長、助役、収入役、書記四人、使丁一人の合計八人、業務は教育、戸籍、兵事、地理(土地)、衛生、土木、徴税、会計等に分けられ、助役と書記が担当した。吏員の定員は五人と決められていた。
 多摩村の村是(そんぜ)(村の方針)は「産業ノ発達、教育の普及」を掲げているが、村長・助役はこれに加え、「本村自治改善」を前面に出している。大正七年十月、多摩村では行政の自治を振興するために、衛生委員三名、学務委員九名、勧業委員一七名、土木委員三名を置くことを決めた(資三―292)。翌八年二月には区長および区長代理一四名(大正八年「事務報告」)と産業改良実行委員一四名を村会で決めている(資三―310)。これらは上部からの指示によるものである。
 「多摩村区長及区長代理者設置規程」によると、「処務便宜ノ為メ」表1―7―1のように村全体を一四区に分け、それぞれ区長および区長代理各一名を置き、任期は四か年、実費を支給するとしている(「大正九年会議書類」多摩市議会蔵)。この一四区は、設置後、多摩村の下部組織として機能を発揮することになる。
表1―7―1 多摩村区長及び区長代理設置の14区
区名 地区
第1区 大字関戸及び大字貝取飛地
第2区 大字連光寺字本村
第3区 大字連光寺字馬引沢 字諏訪坂
第4区 大字連光寺字下河原
第5区 大字連光寺字舟ケ台
第6区 大字貝取
第7区 大字乞田字下乞田
第8区 大字乞田字上乞田
第9区 大字落合字下落合 字青木葉
第10区 大字落合字山王下 字中組 字唐木田
第11区 大字和田字上和田 大字百草
第12区 大字和田字中和田 字並木
第13区 大字東寺方及び大字落川
第14区 大字一ノ宮
「多摩村規程第拾八号」より作成。

 これらの選出された各委員は、いずれも「村長ノ命ヲ受ケ其ノ事務ニ服ス」(「多摩村巡視調査事項」)組織をつくっていた。なお、大正七年十月、一連の委員設置の規程と同時に、「多摩村善行者表彰規程」(資三―301)が制定された。その規程には、表彰すべき者として、村の自治の改良発展に功績顕著であった者や、公益事業に労力資源をなげうち、特に村のために尽力した者があげられており、このことから、新しく設置された常置委員や区長・区長代理等を念頭に入れての善行者表彰規定であったことがわかる。これらの功労者を表彰することによって、村の自治の発展をはかるとともに、当時、地方行政において最大の課題になっていた地方改良運動を推進していったのである。
 村の行政のすべては、村会によって決められる。大正二年(一九一三)四月二十五日、多摩村では村会議員の選挙が行われたが、大正時代には村会の選挙制度の改正が次のように行われ、選挙が実施されている。
 大正二年四月の選挙は、多摩村において、明治四十四年(一九一一)四月、新市制町村制が公布されて最初の選挙であった。それまでの市町村会議員の任期は六年で、三年ごとに半数を改選する規程であったが、任期四年、全員改選と改められた。その選挙によって、一級六人、二級六人が選出された。
 大正十年四月、市制町村制の改正が行われ、町村会議員選挙は一級と二級の制度が廃止された。多摩村でこのもとに選挙が行われたのは大正十三年四月二十五日の選挙であった。級別廃止後、初の選挙で一二名が選出された。選挙人は六三三名、投票者は五九三名であった。選挙人は大正六年と比較すると、四七四名から六三三名と増加し、投票率は五〇・〇パーセントから九三・六パーセントヘと急増している。大正十五年には市制・町村制、府県制が同時に改正され、普通選挙が採用された。大正十年と十五年の選挙権の拡充は、大正デモクラシーの直接的反映であった。
 大正十年四月、「郡制廃止に関する法律」により郡制廃止が決まり、十二年四月一日に施行され、以後、郡長と郡役所は国の地方行政官庁として残った。それも、十五年六月の勅令で郡長が廃止され、それにともなって郡役所が廃止された。これにより南多摩郡の郡長と郡役所も消滅した。
 大正九年十一月、富沢政賢が村長を満期退職した。富沢は明治二十二年六月以来三〇有余年、村長の座にあった。途中、佐伯太兵衛に代ったが、再度村長に就任し、満期まで勤めて自ら退職した。その後任には藤井保太郎が就任し、次いで、伊野平三と続いた。
 村役場の業務は、毎年義務として提出されている「事務報告」にまとめられている。それによると、文書収受発送、会議(村会)、選挙、基本財産、教育、戸数・人口(戸籍)、兵事、衛生、警備(消防)、吏員進退、土木、会計、徴税、等々である。このうち教育、戸籍、兵事、衛生、土木、徴税は、役場に課せられた基本の業務である。
 教育については教育費が村財政の約半分を占め、児童の就学、出欠に強い関心が示されていた。兵事については、徴兵検査・合格兵種別・入退営者(現役、予備、後備、補充兵)等の書類完備、衛生の面では法定伝染病に指定されている赤痢、腸チフス、ジフテリア、パラチフスの防疫に、予防接種では種痘に力が注がれていた。学校の児童や徴兵検査で、眼病のトラホームが問題とされ、根絶がはかられた。なお、伝染病による死者は火葬が義務付けられており、大正五年九月、伝染病死者と汚物を焼却するため、多摩村火葬場の設置が村会で協議され即日議決された(資三―288)。
 表1―7―2は大正八年における南多摩郡東部五か町村の国・府・村税の負担一覧表である。これによると、多摩村の税負担は、他村と比較して平均的な負担であることがわかる。この三税のうちで、どこの町村でも町村税の徴収には苦慮した。多摩村の場合、大正九年度の徴収状況は、国・府税とも納期内に完納しているが、村税は「調定額」二万二七五三円七四銭に対して、納期内徴収額は三七四八円一一銭(一六・五パーセント)、納期後徴収額一万〇五五四円九四銭(四六・四パーセント)で、未納額八四五〇円六九銭(三七・一パーセント)であった。
表1―7―2 南多摩郡東部五か町村諸税負担
大正8年
町村名 国税 府税 町村税 1戸当り
日野町 14,437 14,007 19,199 47,643 57円263
七生村 7,616 8,520 11,025 27,161 53円361
由木村 9,375 10,989 16,902 37,266 44円870
稲城村 10,529 11,407 10,898 32,834 50円905
多摩村 9,140 10,602 15,668 35,410 52円459
南多摩郡 158,145 175,045 252,590 585,780 44円556
『多摩町誌』より作成。