この米騒動の原因は、急速に発展した日本資本主義の矛盾の所産といわれている。大戦で輸出が急増して国内ではインフレ現象となり、勤労者の実質賃金は低下し、そこに米価が異常に急騰したからである。大正五年、石当たり一三円二六銭の米が、六年には一九円三五銭、七年になると三一円八二銭、八年には四五円四九銭と暴騰していったのである(農商務省食糧局編『米穀統計』)。
このような状況から、政府は八月十三日、三〇〇万円の恩賜金を各府県に分かち、一〇〇〇万円の国費を米価対策に使用すると発表、その上各府県に指令して富者の寄付金による米の廉売を行わせた。
これを受けて東京府知事井上友一(一八七一~一九一九)は、直ちに管区市役所・町村役場に訓示を発した。それによると、恩賜金として東京府に三〇万五〇〇〇円を分賜されたので、当局者が庶民に「聖恩」を徹底させることを説いている。その上で、慈善団体に供給する外米を更に廉価で配付し、内地米をも加えて廉価方法を講ずる等、細民救済に役立て、さらに四項目を掲げて指示している(『東京日日新聞』大正八年八月十五日付)。
図1―7―1 府知事の訓令を報じる記事
南多摩郡には六九〇二円の恩賜金が配布されることになった。南多摩郡長内山田三郎は恩賜金の下賜に「感泣」し、町村長に「聖旨」を伝達し、他日方法を講じる、と話した(『東京日日新聞』八月十八日付)。ちなみに八王子市への恩賜金は三五二二円であった。八王子市では八月十五日、市長や市会議員が集まり、八王子慈善協会を結成して市長が会長に就任し、白米廉売や続々と集まる寄付金に対処した(『東京日日新聞』八月十七日付)。
南多摩郡では八月二十日、郡役所で臨時町村長会議を開き、御下賜金六九〇二円の配分を次のように決めた。
横山村二八五円、浅川村三三五円、元八王子村四二一円、恩方村三九二円、川口村三九一円、加住村二八一円、小宮村四六二円、日野町四五三円、七生村二七六円、由木村四四八円、多摩村三五八円、稲城村三八一円、鶴川村四三九円、南村三五三円、町田町四一一円、忠生村四九一円、由井村三九三円、合計六九〇二円(『東京日日新聞』八月二十一日付)。多摩村は三五八円を受けることになった。
救済の対象になった「細民」について、内山田郡長は、「本郡の所謂細民階級なる者は、各町村に於て戸別割(税)の末等を負担する者以下を標準とせる者」としており、総数は約二五〇〇戸に達すると推定している。仮に五〇袋の外米を得たとすると、一回に一戸一升二合を供給する、としている(『東京日日新聞』八月二十一日付)。
多摩村の恩賜外米廉売については、東寺方の伊野富佐次が「備忘録」(資四―4)に記録している。それによると「御手元金弐百万円」(実際は三〇〇万円)を分賜、東京府は三〇万五〇〇〇円を各市町村に分配、多摩村は八月三十一日、天長節(大正天皇生誕日)に第一回供給を実施した。東寺方・和田・落川・一ノ宮の四区の「細民」については、多摩小学校第一分教場で実施した。第二回目は九月八日に行われ、その回からは大字の各区で実施し、東寺方は杉田林之助宅で行った。二回目は村の名誉職が立ち会い、青年会員と在郷軍人分会員が行った。以後、九月は十九日、二十三日、二十七日、十月に入って五日、九日、十三日、十九日と外米廉売が杉田林之助宅で行われ、十九日の第九回で打切りとなった。
日本のほとんどを席捲した米騒動は終息したが、寺内内閣を辞職に追い込み、結果的には政党内閣時代の産婆役を果たすことになった。