国勢調査の歴史は明治三十五年(一九〇二)にさかのぼる。その年の第一六回帝国議会で「国勢調査ニ関スル法律」が制定公布され、三十八年に調査が行われる予定であったが、日露戦争のために延期された。ついで大正七年、第四〇回議会において、同九年十月一日に第一回の調査が行われることが確定した。「国勢調査施行令」によると、氏名・世帯における地位・男女の別・出生の年月日・配偶の関係・職業および職業上の地位・出生地、それに民籍別又は国籍別の各項目を調査するとしている(第二条)。
多摩村においても第一回国勢調査については、他の市町村と歩調を揃えて早くから取り組みがなされた。大正八年十一月三十日に、南多摩郡長に「国勢調査地方事務取扱ニ関スル報告」(多摩市行政資料)を提出し、臨時国勢調査係を設け、調査係として主任(助役)一、副主任(書記)一、係員(書記)二を任命したと報告した。村としてはこの臨時国勢調査係を軸として展開していくことになる。
大正九年六月十三日、国勢調査員一九名、国勢調査予備調査員三名について、村長より東京府知事に「内申」が提出され、それと同時に「調査区域認可申請」が出された。国勢調査の方法として、あらかじめ村内を大字・小字を単位に一九に分け、国勢調査員を一名ずつ充当している。これらの方法は郡内一律に行われている。
この国勢調査員は直接調査を担当する「極メテ重要ナル責任ヲ有スルモノ」であることから、慎重に選択することを指示されている。上部機関が国勢調査員として期待している人物像は「名望家ニシテ身体健康職務ノ遂行ニ堪ユルモノ」をはじめとして「申告書記入心得ヲ理解シ」代筆のできる者、具体的には小学校教員、青年団幹部、在郷軍人会幹部をあげており、「社会ノ上流ニ立ツ人士カ篤志ヲ以テ国勢調査員トナル」人物をあげている(「国勢調査打合事項」多摩市行政資料)。以上の観点から、多摩村では、現役の村会議員七人、元準訓導二人、在郷軍人会二人、その他区長、勧業委員、青年会等の者八人、合計一九人が選任された(「国勢調査員内申」)。なお国勢調査予備調査員は役場の調査係全員があたっている。これと同時に提出された調査区域は表1―7―3の通りで、世帯概数と人員概数が記載されている。
調査区域番号 | 世帯 概数 |
人員 概数 |
大字( )内小字他 |
世帯 | 人 | ||
第1号 | 38 | 203 | 関戸、貝取、元大山往還、御狩場、稲城往還、西地区 |
第2号 | 33 | 175 | 関戸、元大山往還、御狩場、稲城往還、東地区 |
第3号 | 29 | 171 | 連光寺(本村、元御狩場道、神奈川往還、西南地区) |
第4号 | 31 | 151 | 連光寺(本村、御狩場道、神奈川往還、東北地区) |
第5号 | 38 | 236 | 連光寺(下川原) |
第6号 | 42 | 256 | 連光寺(舟ケ台) |
第7号 | 26 | 157 | 連光寺(馬引沢、諏訪坂) |
第8号 | 48 | 271 | 乞田(堂合、道東) |
第9号 | 42 | 239 | 乞田(堂合、道西) |
第10号 | 20 | 144 | 貝取(瓜生) |
第11号 | 21 | 143 | 貝取(本貝取) |
第12号 | 43 | 262 | 落合(下落合、青木葉) |
第13号 | 32 | 193 | 落合(山王下、楢原、中沢) |
第14号 | 41 | 265 | 落合(高岸より唐木田にいたる地区) |
第15号 | 47 | 270 | 和田(上和田、百草) |
第16号 | 36 | 217 | 和田(中和田、並木) |
第17号 | 33 | 204 | 寺方(元日野往還分岐、元寺方) |
第18号 | 42 | 243 | 東寺方(東関戸、有山) |
第19号 | 46 | 266 | 一ノ宮 |
計 | 688 | 4066 | |
在地の国勢調査関係者には国勢調査の意義や調査内容、調査方法について徹底しているが、「国勢調査は何の為に行ひますか」の設問に、国勢の基本を正確に知る為であり、そのためには欧米諸国のような国勢調査の方法によらなければならないこと、「殊に世界五大強国の一として列国と肩を並べて行くには予め国勢の基本になるものを正確に調べ」る必要があるとした(「国勢調査」多摩市行政資料)。第一次大戦の戦勝国として、日本は英・米・仏・伊と肩を並べ、五大国として世界の桧舞台に登場することになったが、その意識を国勢調査を通じて地方の村落指導者にも植え付けていった。
八月一日、一九人の国勢調査員が正式に任命され、辞令と徽章の伝達式が行われた。八月末から九月になって、調査委員の仕事は急にせわしくなった。第一七区を担当したのは東寺方の伊野富佐次であった。調査について伊野は、「備忘録」に以下のように書き記している(資四―5)(資料中の八月二~六日までは九月の誤記と考えられる)。
九月三日夜、多摩尋常高等小学校で国勢調査宣伝のため講演会と活動写真が行われた。当時、活動写真は珍しく、人集めの有力な武器になった。国勢調査員の仕事は九月末から本格的に始動しはじめた。
伊野は九月二十八日に配布した調査申告書を集め、十月一日、検査補正した。それを三日に役場に提出、五日に杉田林之助と共に役場に出頭し、申告書の一部を訂正して終った。その日は国勢調査に従った一同とともに酒餐が行われ帰宅した。翌日、一部誤謬を発見し申告書を作成して提出し、すべて完了した。多摩村総人口は四一一一人であった(『多摩町誌』)。
なお、国勢調査は一〇年ごとの大規模調査と中間五年目の簡易調査が行われたが、大正十四年十月一日に実施された簡易調査では、多摩村は世帯数七五八、人口男二二三七人、女二一四七人、合計四三八四人であった(『多摩町誌』)。