名称 | 産額 | 価格 |
円 | ||
目籠(メカイ) | 814,000個 | 20,825 |
草鞋 | 56,000足 | 1,680 |
草履 | 23,000〃 | 690 |
下駄 | 500〃 | 175 |
下駄畳表 | 5,000〃 | 2,750 |
縄 | 925房 | 463 |
生糸 | 618貫 | 43,733 |
絹撚糸 | 390〃 | 43,420 |
計 | 113,036 | |
(ママ) | ||
目籠とは笊(ざる)のことで、しの竹の皮で編んだいれ物である。材料のしの(篠)は山から伐ってくる。目籠作りのしのはその年に生えたものがよく、旬は十一月から二月までとされている。不足分は問屋から購入した。皮剥ぎは田仕事が終った十一月から開始する。割って乾かしておいたしのを水に浸け、しのの皮を剥ぎやすくする。剥いだ皮が材料となり、身はかまどの焚物になった。目籠作りは農閑期の三月頃までで、どの農家でも生産に精を出した。成人男子の一日当たりの生産高は平均二〇枚であった。年末は特に忙しく、元旦の朝まで仕事をする場合もあった。できた目籠は仲買が集荷していった(『多摩市史叢書(11)多摩市の民俗(メカイ<目籠>関係資料』)。
大正五年(一九一六)多摩と近隣の村の目籠作りの戸数と従業者数は表1―7―13の通りである。多摩村が全体の四八・九パーセントと約半分の生産量を占めていた。多摩村が周辺の村むらの中でいかに目籠生産が盛んであったかがわかる。因みに大正五年、多摩地域において竹製品の生産額は、八王子町二五四一円、西多摩郡一五八〇円、北多摩郡五〇〇円、南多摩郡は一万四一四四円と南多摩郡が群を抜いていた(『東京府史』行政編 第三巻)。
村名 | 戸数 | 従業数 | 関係する主な字 | |
男 | 女 | |||
戸 | 人 | 人 | ||
由井村 | 45 | 25 | 70 | 宇津貫 |
由木村 | 380 | 380 | 730 | 堀之内、東中野、大塚 |
多摩村 | 480 | 150 | 570 | 乞田、貝取、落合、連光寺 |
鶴川村 | 45 | 24 | 88 | 野津田 |
七生村 | 32 | 20 | 30 | 南平、三沢 |
計 | 982 | 599 | 1488 | (男女計2087) |
大正八年一月に告示された「南多摩郡産業奨励要項」には「林業」の項目を設け植林を奨励しているが、多摩村における「林業」は薪炭材と木炭の生産が主体であった(表1―7―14)。炭焼きの仕事は丘陵地の農家の農閑期の仕事であった。十一月、十二月から木を伐りはじめ炭焼きにかかった。大正時代には生産された木炭は仲買人がみえ売るようになった。薪作りも農閑期の暮から春までの仕事であった。薪にはマキ・ナグリマキ・ソダ・モヤがあった(『東京府史』行政編 第三巻)。
産業 | 名称 | 数量 | 価格 |
円 | |||
林産 | 用材 | 185石 | 1,381 |
薪炭材 | 770棚 | 6,930 | |
木炭 | 5,000 | 5,000 | |
竹材 | 177束 | 137 | |
計 | 13,448 | ||
水産 | 鮎 | 3,950貫 | 8,532 |
鯉 | 150 | 300 | |
鮠 | 850 | 680 | |
鰻 | 280 | 1,260 | |
其他 | 250 | 656 | |
計 | 5,480 | 11,428 | |
畜産 | 牛 | 4頭 | 800 |
馬 | 94頭 | 9,500 | |
豚 | 70頭 | 1,680 | |
家禽 | 4,945羽 | 2,228 | |
計 | 14,208 | ||
多摩川を控えて、多摩村では水産業に従う者もみられた。特に鮎漁は盛んで、魚の中で第一位を占めていた(表1―7―14)。
畜産業では『南多摩郡史』によると、大正六年(一九一七)、南多摩郡における牛飼育は牝牡合計七九七頭、同じく養豚頭数は大正六年度末に二七五〇頭であるが、南多摩郡では大正八年度から一〇か年を期して牛・豚とも頭数の五割増を目指す計画を「産業奨励要項」で決めている。養鶏では南多摩郡内の飼育戸数は六〇六二戸であるが、大正八年から一〇か年の間に全農家に普及させることを決めている。多摩村の畜産は表1―7―14の通りである。