地方改良運動と青年団

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多摩村では、明治の後半から青年会の活動がみられ、明治三、四十年に村内各地域に結成されて行った。大正時代にはいると、多摩村全体で統一の動きがみられ、大正四年(一九一五)二月に統一を果した(「多摩村巡視調査事項」)。
 ところで大正四年九月十五日、全国的に活発化した青年会の動向に注目した内務・文部両省は、訓令を発して地方に青年会の指導について指示した。訓令によると、「青年団体は青年修養の機関」で青年に「健全なる国民善良なる公民」としての素養を得させるにある、すべからく地方当局者は青年会の健全な発達を遂げさせるよう期すべきである、と方向を明記している。
 この訓令を契機に全国的に青年団体の再編に着手され、従来の青年会から新しく青年団へと変っていった。
 大正七年三月十五日、南多摩郡では各町村の青年会幹部を府立織染学校に集めて協議会を開催し、青年会の統一・再編について協議した。統一の協議事項の主体は次の二項である。
一、未タ町村本位ニ統一セサル青年会ハ此際急速之ヲ実行シ三月末日迄ニ報告スヘキコト
二、来四月末日迄ニ本郡青年団ヲ組織セントス

(『日野市史史料集』近代2)

 この二項については異議なく可決された。この他、秋季に郡青年団の創立総会を開催し、同時に講演会・運動会を行うことが協議されている。
 町村ごとに青年会を統一することが決められると、各町村の青年会は直ちに実行し、新聞報道によると四月中に七生村、由木村、元八王子村、川口村、町田町等の青年会は一つの組織に統一され、それまでの青年会から青年団にかわっていった。
 多摩村の場合、前述のように青年会の村内統一は大正四年に実施された。その年の二月十五日、多摩村尋常小学校で多摩村青年会創立総会が開かれた。出席者は二五〇名で「多摩村青年会会則」を決め、役員選出では座長指名で会長に真藤龍蔵、副会長に下野延太郎、幹事小形虎之助以下七名が決定した。
 青年会は「各部落ニ支会ヲ置」き(第一条)、事務所は多摩村尋常高等小学校に置く(第二条)と決め、第三条に目的を掲げ、青年の風儀を正し、親和を強固にし、実業の発展、勤倹貯蓄を奨励して遊惰安逸に流れないことをあげている(「多摩村青年会々則」寺沢史氏蔵)。
 ところで、南多摩郡青年団の発会式は、青年団運動会とともに大正七年十月十七日、八王子市台町の招魂社下常設運動場で挙行された。南多摩郡長でもある内山田三郎団長の開会の辞にはじまり、宣言が発表、講話に続いて来賓の祝辞で発会式を終了、引続き青年団の運動会が開催された。新聞記事には「歓衆は三万と註され空前の大盛況を呈した」と報じられた(『東京日日新聞』大正七年十月十九日付)。
 南多摩郡青年団が成立し、青年会が青年団に再編されると、行政では組織を活用し積極的に指導にのり出していった。大正八年一月には地方改良並青年団幹部養成講習会が開催されたが、九年から地方改良講習会と青年団幹部養成講習会をそれぞれ独立させて実施した(資四―6)。