玉南電気鉄道設立申請の経緯

389 ~ 391
戦後恐慌が発生した大正九年(一九二〇)の十一月十日、八王子の桑都公会堂で玉南鉄道発起人総会が開かれた(資四―22)。総会では会社創立事務の進捗をはかるため各市町村から設立要員を置き、その要員より常任委員を定めることとして、設立委員には府中町六、西府村四、多摩村六、由井村三、由木村三、七生村七、東京市三、八王子市一一、元八王子村一、川口村一、浅川村二、横山村一の合計四八人が選ばれている。要員数が多い西府村、多摩村、七生村、八王子市は、府中町を含めて玉南鉄道が開通を予定されているからである。ちなみにこの時、多摩村からの創立委員は小川平吉(府会議員)、新田信蔵(元村会議員)、杉田林之助(村会議員)、佐伯太兵衛(南多摩郡会議員)、相沢兵蔵(元村会議員)、富沢政賢(前村長)の有力者六人であった(資四―11)。
 創立委員四八人の中から常任委員一三人が選出された。この一三人の中には林副重、小宮佐一郎、小川時太郎などかつての民権家がみえ、京王電気軌道株式会社(通称京王電軌)の社長井上篤太郎の名が最後に記されて創立総会の意義を高めていた。井上自身もかつては愛甲郡の民権家として活躍し、神奈川県会議員をも歴任していた。
 玉南鉄道が目指したのは、すでに京王電軌が新宿と府中を結んで電車を走らせており、府中から八王子まで玉南鉄道を設立して結合させることにあった。京王電軌は当初、新宿・八王子間の新設を目指していたが、経営不振のため実現せず、府中・八王子間の路線免許は取消されていた。玉南鉄道という新線をあえて設立したのは次の理由があったからである。
①沿線住民の資金を活用して、京王自社の資金負担を緩和しようとしたこと
②新線として地方鉄道法の適用を受け、政府より補助金を獲得しようとしたこと
(青木栄一「京王帝都電鉄のあゆみ」『鉄道ピクトリアル』No.422所収)

 以上の二点であるが、地方鉄道法は大正八年四月十日公布、八月に施行されたばかりであった。それまでは京王電軌は沿線住民の要請があったが、それには応じなかった。京王電軌が玉南鉄道設立に踏み切ったのは、沿線住民の資金協力と共に八年の地方鉄道法の公布があったからである。同法は経営者が営業不振の場合、五年間に限り不足額を補助することを約束していた。それに加えて大正前半期は私鉄の建設ブームに湧いていた時でもあった。西武鉄道、京浜急行電鉄など東京郊外電車は、大正時代につぎつぎ新線をつくっていった(竹村民郎『大正文化』)。京王電軌もこのブームに乗って郊外へと鉄路を進めていったのである。
 補助金を得るためには地方鉄道法に従わなければならなかった。当時の地方鉄道法では四フィート六インチ(一三七二ミリ)軌間が認められていなかったので、玉南鉄道の軌間は三フィート六インチ(一〇六七ミリ)となり、三〇五ミリも狭く京王電軌と直通運転はできなくなってしまった。それに沿線住民の資力提供と地方政治家の要求を満足させるためには社の方針であった甲州街道沿いの路線敷設を「南回り」に変える必要もあった。それらを含めて大正九年十一月三十日、玉南鉄道創設の常任委員により鉄道省に敷設免許が申請された(資四―12)。

図1―7―5 府中以西の延長難航を伝える記事