玉南電気鉄道の設立

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大正十年(一九二一)一月十八日の『東京日日新聞』は、「玉南鉄道愈々出願提出」の見出しを掲げ、地方鉄道法の補助を受ける設定のもとに願書を提出したと報じ、開通までには三か年の歳月を要することを記している。日野市の金剛寺境内にある「玉南電気鉄道記念之碑」によると、敷設免許を申請して十年十月に免許を得、十一年七月に資本金を一五〇万円と定め役員を選定して会社設立を告げた、と刻まれている。会社の正式名称は定款によると「玉南鉄道株式会社」と記されている(資四―12)。

図1―7―6 玉南電気鉄道記念之碑

 会社設立について「趣意書」、「起業目録見書」、「定款」などの一連の文書が鉄道省に提出された。そのうち「発起趣意書」には玉南鉄道が目指している内容をまとめている。
 玉南鉄道は京王電軌の終点である府中を起点として西府村と多摩村の地内で多摩川を横断し、その支流浅川の南岸に沿って八王子にいたる路線で、交通不便にあった沿道居住者に与える利益は多大で、沿線の面目を一新することは疑いないとしている。加えて玉南鉄道沿線の行楽地として百草園、平山城址、高幡不動は一般によく知れわたっており、一日の閑を郊外の自然に接することは都会人士にとってこの上なく、八王子は機業地として商業が盛んで、沿線の農村は農林産物を産出し、旅客の往来と物資の集散が多いことは言をまたないとしている。
 とりわけ戦後経済界の好況の影響で、都市も農村も相当の資金を包擁している時に、徒に死蔵しているよりも鉄道のごとき安全確実な公共事業に投資するのは、単に個人の利益だけではなく国家経済上最も有益であるとしている。要するに京王電軌を含めて玉南鉄道は、沿線住民に大戦直後の余裕資力を安全な鉄道へ投資することを期待し、資金協力を訴えていた。さらに地方鉄道法に拠り、敷設する鉄道に対し、政府は従来五朱の補助を支給していたが、三月の議会で七分に増加し、鉄道の場合建設工事中五朱の利息配当を認められている、としている。このことは玉南鉄道建設の絶好の機会として発起した、と趣意書に記している。
 「起業目論見書」では、玉南鉄道は旅客と貨物の運送を目的とし、資金は総額二〇〇万円で、内訳は鉄道資金として一七五万円、付帯事業資金として二五万円を計上している。線路の起点と終点、ならびに通過地名については、府中町京王電気軌道株式会社終点を起点とし、北多摩郡西府村・南多摩郡多摩村・七生村から由井村を経て八王子市西端台町に至る地点であった。最終地点はのちに台町から現在の明神町に変更された。鉄道は電気鉄道方式で直流架空単線式であった。