京王電気軌道への吸収合併

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大正十一年(一九二二)七月、玉南鉄道は次のように取締役社長をはじめ会社役員を決め玉南鉄道株式会社を設立した。
取締役社長 井上篤太郎
取締役   島田竹三郎 渋谷定七 渡辺孝 青木重匡
監査役   小川平吉(多摩村) 井上平左衛門

 会社役員は取締役と監査役で株式二〇〇株以上を所有する者から選任すると決められていた(資四―12(5))。その他相談役に藤井諸照(多摩村)と森久保作蔵がいた。
 敷設工事は測量からはじまり、工事施行認可を申請、認可後、全線五区と多摩川橋梁工事に分けられ、まず難工事とされた橋梁から開始された(資四―22)。大正十三年五月二十五日には関戸・八王子間の工事に着手、停車場・停留所の名称も申請された。現在の聖蹟桜ヶ丘は関戸という名称の停留所で、乗降場と簡単な建物のみであった。百草は当初は落川停留所であったが、開通前に百草停車場に変更された(資四―16)。百草停車場には便所や信号機、簡易連動機も設備され関戸よりは充実していたようである(資四―19)。
 大正十四年三月十六日、玉南鉄道では府中・東八王子間の工事が竣工したので、三月二十日から運転を開始したい、と鉄道大臣に申請した。三月二十三日には工事竣工についての監査報告が玉南鉄道宛に提出されている。その結果は路線・車輌・電気設備とも異状なしという報告であった(資四―19)。
 三月二十四日、玉南鉄道は一斉に開業した。客車ボギー式八六人乗五輛、七二人乗小貨物一屯積合造車五輛、一〇屯積貨車一輛の電車が動き始めた。府中駅を出るとすぐに九〇度左にカーブして甲州街道をはなれて南にくだり、西府村の中河原から多摩川の鉄橋を渡り関戸に達する。このカーブは政治や地元住民の思惑が絡んだ曲線であった。そこから西に方向を変えて田園地帯を一路東八王子へと電車は向った。三月末ともなれば桜の花の便りもちらほらささやかれる時であった。

図1―7―7 多摩川を渡る玉南電車

 開業二日後の二十六日には、高幡駅構内で開通式が行われた。総費額は実に二三〇万五〇〇〇円で、当初の予算二〇〇万円を大きく上まわっていた。
 玉南鉄道は地方鉄道法にもとづいて発足し、発足当初から地方鉄道補助の援助を期待していた。そこで開業直前の二月十日、玉南電気鉄道株式会社社長井上篤太郎は、鉄道大臣に「地方鉄道補助申請書」を提出した。ここではじめて玉南鉄道から玉南電気鉄道としている(以後「玉南電鉄」と記す)。内容は、工事中関東大震災の影響を受けて労働力や諸材料の供給がつかず、建設費が著しく膨張し、それに加えて経済界の不況で開業後予期した成績をあげることができず自立不可能と判断されるようになった。そこで地方鉄道補助法により相当の援助を請いたいと申請した。
 玉南電鉄の申請にもかかわらず鉄道省は、なしの礫(つぶて)であった。そこで三か月後の五月九日、「地方鉄道補助追願書」を提出した。三月二十四日に営業を開始したが、「到底収支相償ヒ難」いので特別の詮議で補助を速やかに願いたい、と実績をふまえて鉄道大臣に懇願した(資四―20)。
 この要請に対し鉄道大臣は、地方鉄道補助の件は「聴届ケ難シ」とはねのけてしまった。理由として玉南鉄道は中央線と並行しており、省線の価値を高めるどころか寧ろ打撃を与えているものである、それ故認めるわけにはいかないとして申請を却下した(資四―21)。当局は玉南電鉄が京王電気軌道の子会社で、補助金獲得のため設立された会社であると判断したためである。この事実を高幡の金剛寺境内にある「玉南電気鉄道記念之碑」(資四―22)には「不幸補助法ニ拠ル補助ヲ得ス」と刻まれている。
 玉南電鉄に補助金が出ないとなると地方鉄道にしておく意義がなくなってしまった。玉南電鉄を京王電気軌道に吸収合併するという動きが急になった。大正十五年十月、臨時株主総会が開かれ、玉南電鉄は京王電気軌道に吸収合併され、昭和元年(一九二六)十二月、解散手続も完了した。
 玉南電鉄の解散にともなって府中・八王子間の改軌工事が開始された。玉南電鉄の軌道を京王電気軌道の四フィート六インチに幅を広げることと、ホームの高さと電車の車輪の幅を線路にあわせて広げる工事であった。線路の軌間を広げることは容易で、実施に移された。しかし、将来、車輌の大型化時代を考慮して車輌とホームは京王電気軌道を玉南電鉄にあわせることとして京王電気軌道のホームを高くし、電車は大型化へ向けて玉南車輌にあわせていった(『京王帝都電鉄三十年史』)。
 昭和三年五月二十二日、新宿・東八王子間の直通運転が開始され、今日の京王線(京王電鉄)の基礎が確立したのである。