総会では、由木村の林副重を創立委員長に選び、常務委員に同じく由木村の大塚嘉義を選出した。委員長に選ばれた林副重は、自由民権期に活躍した多摩の自由党の指導者の一人である。多摩や神奈川県の自由党員で、明治後半期から大正期にかけて、私鉄設立に関係した者は多い。民権期に五日市(あきる野市)の勧能学校にいた利光鶴松は小田急初代の社長に就任、堺村相原(町田市)の青木正太郎は江の島電鉄の社長になり、愛甲郡出身の井上篤太郎は京王電気軌道の社長に就任している。
南津電気鉄道は東京府南多摩郡多摩村(現多摩市)の一ノ宮から由木村鑓水を経由して神奈川県津久井郡川尻村に至る全長一〇マイル(約一六キロメートル)の鉄道を敷設しようとする計画である。
一ノ宮は当時玉南電気鉄道(現在の京王線)の関戸(現聖蹟桜ヶ丘)と百草(現百草園)の中間に位置しており、野猿街道が川崎街道につきあたりT字路をつくっている一帯である。玉南鉄道の軌間は一〇六七ミリ、南津電気鉄道も同じ軌間であったことから両線は一ノ宮で連絡を考えていたのであろう。
南津電気鉄道は一ノ宮から現在の野猿街道に沿って西南西に進み、由木村の東中野・下柚木・上柚木・鑓水を結んで横浜線の橋本・相原間を越え、川尻村に達する計画であった(地図参照)。それに川尻村の手前の三屋から横浜線相原駅への路線も計画にあったようである。現在の鉄道と比較すると、京王相模原線に沿って北側を進んでいく形になる。南津電気鉄道の南津とは、南多摩郡の南と津久井郡の津をとって南津(なんしん)と称したのである。
図1―7―8 南津電気鉄道予定線略図
会社設立の目的は「会社設立趣意書」によると次の三点にまとめている。
①起点である多摩村は「玉川砂利」が無尽蔵にあり、これを沿線の鉄道改修工事や関東大震災による東京・横浜の復興事業に運搬すれば利益があがる。
②終点の津久井郡の中沢・荒川は相模川の鮎漁と観光で都会人士の憩の場所である。さらに本線が津久井の中野村(津久井町)まで延長されると、現在運搬手段になっている馬車・自動車による森林資源の運送が飛躍的に増大する。
③沿線の農業地帯から産出する繭・生糸・米・野菜・磨砂・粘土等の産物を輸送すればこの地方の産業発展は図り知れないものがある(『相模原市史』第四巻等)。
②終点の津久井郡の中沢・荒川は相模川の鮎漁と観光で都会人士の憩の場所である。さらに本線が津久井の中野村(津久井町)まで延長されると、現在運搬手段になっている馬車・自動車による森林資源の運送が飛躍的に増大する。
③沿線の農業地帯から産出する繭・生糸・米・野菜・磨砂・粘土等の産物を輸送すればこの地方の産業発展は図り知れないものがある(『相模原市史』第四巻等)。
大正十五年十一月二十日、南津電気鉄道の免許申請が鉄道大臣より許可された。免許状には「南津電気鉄道株式会社 発起人総代 大塚嘉義 外四拾名」と記されている(資四―23)。「外四拾名」の発起人については、後日提出されている発起人名簿(「鉄道省文書」国立公文書館蔵)をみると、由木村(八王子市)二三人、多摩村(多摩市)四人、堺村(町田市)八人、相原村(相模原市)三人、川尻村(津久井郡城山町)二人で、多摩村の四名は和田二人、一ノ宮二人である。分布をみると、南多摩郡二五人、神奈川県高座郡三人、同津久井郡二人となっている。すべて在地の住民でかつ指導者であることにちがいない。分布の比重は由木村が二三名と全体の半分以上を占めている。
南津電気鉄道が免許を得て二か月後の昭和二年(一九二七)一月十八日付で、一ノ宮から中央線国分寺停車場間五・四マイルの延長線の免許申請が出された。目的は玉川砂利を輸送することにあったと考えられるが、四囲の情勢で多摩村・西府村に落着き、昭和二年十二月二十七日に免許された。結果的に路線は川尻村から由木村、多摩村を経て西府村迄と確定した。
延長許可がおりるちょうど三か月前、昭和二年九月二十七日、由木村鑓水の会社創立事務所において、南津電気鉄道株式会社創立総会が開かれた。席上取締役と監査役が選出され、取締の互選で社長に林副重、常務取締役に大塚嘉義が決まった。ここに南津電気鉄道は正式に発足することとなった。