南津電気鉄道の解散

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昭和二年(一九二七)九月二十七日、南津電気鉄道は発足したが前途は多難を極めた。創立総会では株金の払込みをしない者の除名や、払込みをしないため失権した者、発起人を脱退した者などを公表し、発足したものの暗雲の中を船出する状況にあった。前途には金融恐慌(昭和二年三月)による経済界の混乱や昭和恐慌(昭和五年以降)が待ちうけていたのである。
 昭和三年に入り、南津電気鉄道では四月三十日に「工事施行認可申請期限延期」の申請が出された(「鉄道省文書」国立公文書館蔵)。鉄道省に工事施行認可申請を出し、認可されたものの資金繰りのためであろうか、延期願を出したのである。そうはいっても前に進む姿勢をみせて工事にかからないわけにはいかない。昭和三年十二月には川尻・相原間の工事施行につき許可を得(資四―24)、同じく三屋・川尻間と川尻・鑓水間の工事施行が認可された。

図1―7―9 鉄道省文書の表紙

 昭和四年一月には前年度の工事施行認可について「工事着手届」が鉄道省の書類に記載されている。だがそれも束の間で、翌五年には「多摩村・西府間工事施行認可申請期限延期ノ件」が提出されており、「再提出」と鉄道省の書類にはあり、二度にわたる工事施行の延期申請である。このことに関連して、昭和五年十一月十四日、南津電気鉄道社長林副重から鉄道大臣に対し「工事施行認可申請期限延期申請書」が提出された。それによると多摩村から西府村の延長線に対し「経済界ノ非常ナル不況ニ際会シ」株金払込み、資本金増資も困難のため六年十一月まで延期してもらいたいという申請書である。これについて知事意見が添えられて「事情不已得」と記されている(「鉄道省文書」国立公文書館蔵)。このような状況は、延長線の多摩村・西府間だけではなく一ノ宮・川尻間の本線とてまったく同じ状況におかれていたのである。
 昭和七年三月、林副重は任期満了で取締役を辞任した。四年以降、取締役に在地以外の東京市内の者が就任するようになっていた。
 昭和七年三月十六日、定時株主総会が開かれ、続いて臨時総会で会社役員の選任をめぐり紛糾し、これを機にそれまでの役員による会社存続派と、これに反対する株主による解散派の対立が表面化し、両者は会社を二分して、存廃を裁判に持ち込んで争った。両者の争いは昭和八年いっぱい続き、最終的には解散派の株主が取締役を占め、会社を代表して役員たちが「会社解散決議認可申請書」を鉄道大臣宛に提出した。昭和九年一月十八日のことである。
 これを受けて鉄道省は次の文案で六月八日の官報に掲載することにした。これにより南津電気鉄道は終止符を打つことになった。
鉄道起業廃止許可 大正十五年十一月二十日南津電気鉄道株式会社ニ対シ免許セル東京府南多摩郡多摩村神奈川県津久井郡川尻村間鉄道起業廃止ノ件、昭和九年六月五日許可セリ

(「鉄道省文書」国立公文書館蔵)