五個師団ほかが参加した大正十年の特別大演習は、原敬首相が暗殺された直後、しかもワシントン会議で軍縮が具体化しつつある最中に実施されている。大本営は神奈川県庁、統監部は横浜の開港記念館に設置されたが、交戦地域の多くは東京府下に属し、御野立所は日野・大和田・下糟屋(しもかすや)・長津田・玉川の五か所に設けられた。
表1―7―15のように、大演習は約五万人の軍隊が東西両軍に分かれて行われ、東軍は陸軍大将・大井成元(しげもと)を司令官に近衛師団、第一師団などが加わり、人員二万二九〇九人、馬匹五六六二頭を数える。他方、西軍は陸軍中将・梨本宮守正王(もりまさおう)を司令官に第三師団、第一三師団、第一四師団など人員二万五七一一人、馬匹三九八一頭が参加した。それぞれ西軍(上陸軍)は東京占領を、東軍(国防軍)はその防衛を目的に、演習が繰り広げられる。
表1―7―15 東西両軍団隊編成表
団隊 | 将校下士兵卒 | 担当官および軍属 | 人員合計 | 馬匹頭数 |
軍司令部 | 73 | 9 | 82 | 41 |
近衛師団 | 7,730 | 354 | 8,084 | 1,058 |
第一師団 | 6,807 | 376 | 7,183 | 968 |
独立歩兵連隊 | 1,429 | 35 | 1,464 | 70 |
騎兵第一集団 | 1,757 | 87 | 1,844 | 1,894 |
野砲兵第一旅団 | 1,146 | 47 | 1,193 | 652 |
独立野戦重砲兵連隊 | 611 | 22 | 633 | 453 |
独立野戦重砲兵中隊 | 128 | 6 | 134 | ――― |
野戦高射砲隊 | 151 | 3 | 154 | ――― |
航空第二大隊 | 341 | 65 | 406 | ――― |
独立気球中隊 | 174 | 29 | 203 | ――― |
軍電話隊 | 291 | 9 | 300 | 86 |
軍無線電信隊 | 75 | 2 | 77 | 51 |
陸軍士官学校生徒隊 | 993 | 117 | 1,110 | 405 |
野戦電灯隊 | 39 | 3 | 42 | 25 |
総計 | 21,745 | 1,164 | 22,909 | 5,662 |
団隊 | 将校下士兵卒 | 担当官および軍属 | 人員合計 | 馬匹頭数 |
軍司令部 | 79 | 18 | 97 | 34 |
第三師団 | 7,105 | 319 | 7,424 | 933 |
第十三師団 | 7,759 | 243 | 8,002 | 1,020 |
第十四師団 | 7,922 | 425 | 8,347 | 1,163 |
独立野戦重砲兵連隊 | 634 | 18 | 652 | 507 |
独立野戦重砲兵大隊 | 183 | 15 | 198 | 138 |
航空第四大隊 | 405 | 44 | 449 | ――― |
軍電話隊 | 413 | 9 | 422 | 109 |
軍無線電信隊 | 118 | 2 | 120 | 77 |
総計 | 24,618 | 1,093 | 25,711 | 3,981 |
軍縮ムードを反映してのことか、この「東京攻防作戦」の実演は、外国武官に公開された。さらに陸軍は、東京・神奈川両府県の拝観希望団体を一六の班に分け、一班につき付き添いの説明者として三人の将校をあてている(『東京日日新聞』大正十年十一月十二日付)。そのため多摩村にも、事前に学校や青年団などの拝観を希望する団体について、報告が求められた(資四―29)。このような便宜を積極的にはかっていることからも、陸軍はこの機を、国民と軍部との密接を計るべき有効な機会ととらえていたと考えられる。
また、今回の特別大演習では、二つのことが注目され、話題になっていた。その一つは、爆撃機、野戦高射砲、軽機関銃、聴音器などの新兵器が初めて使用されたことである。戦車、飛行機、潜水艦、毒ガス兵器などの新兵器が登場した第一次世界大戦に対応し、陸軍は「軍備の近代化」を推し進めていたが、開発した新兵器をさっそく大演習という「実戦」を想定した舞台で導入している。
なかでも、爆撃機は目玉であった。たしかに飛行機と飛行船は、川越・所沢・立川を「会戦地」とした大正元年の陸軍特別大演習ですでに登場している(『所沢市史 下』)。だが、そのときは敵状視察という限定した目的での参加であった。それに対し、今回は初めての試みとして、爆撃機参加による空中戦と帝都爆撃が、演習プログラムに組まれていた。特に、帝都爆撃の夜間演習は、第一次世界大戦でドイツ軍が行ったロンドン空襲を視野に入れた最新戦術の研究と考えられる(『東京朝日新聞』大正十年十一月五日付)。
もう一つ、この特別大演習で注目されていたことは、皇太子裕仁(ひろひと)が大正天皇に代わって初めて統監したことである。「東宮殿下最初の御統監」という宣伝文句で盛り上げられ、新聞紙上では大演習期間中、連日皇太子の動静が伝えられた。そして、特別大演習終了後の大正十年十一月二十五日、皇太子裕仁は摂政となる。大正天皇の病状が悪くなるにつれ皇太子の外遊中から摂政問題がおこり、帰国後の同年十月には、皇太子が大演習終了後摂政に就任することが、政治指導者と皇族の間で決まっていた(伊藤隆・広瀬順晧編『牧野伸顕日記』)。皇太子の「馬上の英姿」がひときわ強調された大正十年の特別大演習は、摂政就任にむけたデモンストレーションとしての役割も果たしていたといえよう。