演習地の選定

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多摩村は、この特別大演習で交戦地域に属していた。多摩川をはさんで、大軍が東西に陣容を整え、華々しい初陣の砲火を交える大演習の第一日目の戦闘舞台となる。しかし、重要な演習地であるにもかかわらず、大演習の方針とその具体的内容については、軍事機密ということで伏せられ、多摩村にはなかなか伝えられなかった。特別大演習の施行が南多摩郡役所から多摩村に知らされたのは、実施四か月前の大正十年(一九二一)七月十八日である(資四―28)。

図1―7―10 特別大演習書類綴

 しかも、多摩村には当初、御野立所が設置されるのではないかという噂が流れていた。参謀本部は南多摩郡を数回調査し、演習の中心地にすることを決めているが、御野立所の場所については明らかにしない。一方で、新聞は御野立所の候補地として、日野町の高台と多摩村の向の岡付近という二つの地点を挙げていた。いずれも、多摩川をはさんだ演習地帯を一望できるという理由である(『東京日日新聞』大正十年七月二十三日付)。このように多摩村には、特別大演習が行われるということだけで準備の要領も具体的に示されず、御野立所の場所も特定されないまま、噂ばかりが先行する状態が九月まで続いた。
 その間新聞は、地元の青年団員と在郷軍人が古井戸などの危険箇所の整備、田畑を踏み荒らす参観者の取締に総動員されること、警視庁が大演習にむけて約一〇〇〇人の警官を動員し、特別部隊を編成することを伝えている(『東京日日新聞』大正十年九月八日付)。また警視庁は大演習の準備のため、日野・小宮・由井・由木・稲城・多摩の各町村に技師を派遣し、井戸水の検査を行った。新聞によると、赤痢患者を出したばかりの多摩村には、九月十六日から防疫官が出張し、周辺の部落の戸口調査を実施して、念入りに調べたようである(『東京日日新聞』大正十年九月十九日付)。京王電気軌道(現・京王電鉄)でも、特別大演習を見物に来る人たちの便宜をはかるために、運転本数を増やす計画がもち上がっている(『東京日日新聞』大正十年九月二十五日付)。
 このように、大演習にむけて、さまざまな機関が動きはじめていた。しかし、御野立所の設置が噂される多摩村では、九月になっても、何ら具体的な準備に乗り出すこともできず、諸般の情勢をながめながら、ただひたすら上からの指示を待つほかなかった。北多摩郡長の宮城栄三郎は、大正十年九月二十五日付の『東京日日新聞』のなかで、次のように述べている。
……若し(御野立所が)連光寺付近に御設けあるとすると、北郡には最も接近してゐる地点なので、夫れこそ大活躍をせねばならぬ事になる。時日の切迫すると共に何れは判明するであらうが、準備の手筈もある故一日も早く事実を慥(たしか)めたいと焦慮してゐる

 このころ、多摩村役場はどのような状態だったのか。直接物語る資料がないため、それを知ることはできない。ただ、御野立所が近くにできるだけで、北多摩郡長はこのように準備のことを心配していることから、候補地の多摩村は、それ以上に焦り、慌てていたのではないかと想像される。