大演習の実施

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特別大演習にむけた多摩村の準備は、当日まで続けられた。橋の重量制限の標示、伝染病患者と患畜の発生地区および家屋の標示などの準備も急ピッチで行われ、連光寺・関戸・東寺方・一ノ宮の四か所に役場出張所が設置されている。井上道太郎宅、佐伯鶴吉宅、小原弘二郎宅などがこのとき出張所として借用され、出張所を設けない他の部落には、演習の模様により出張するという体制が整えられていった(資四―36・38)。
 たしかに、十月六日の事務打合せ会議が終わって間もない同月十三日には、皇太子裕仁の統監代行が多摩村にも伝えられている(資四―33)。しかし、皇太子の御野立所への発着予定時刻は、「特別大演習書類綴」(多摩市行政資料)によると、大演習実施三日前の十一月十四日まで通知されず、また、多摩村が十一月十七日の交戦地域になるという情報を「其筋ヨリ」得たのも、前日の十六日のことであった。十六日の午後六時には、関係者が役場に集まり、協議している(多摩市行政資料)。
 このように、御野立所にはじまり、皇太子の発着予定時刻、演習日時にいたるまで、地元にはなかなか明らかにされなかった。遅くから流れてくる情報に、実施直前になってバタバタし、引っかきまわされたというのが、多摩村の大演習準備の実情であったといえよう。
 いよいよ、大正十年(一九二一)十一月十七日、戦闘演習が始まった。いち早く日野町に進み、南平・高幡・三沢・百草・東寺方・大塚の一帯を広範に占領した西軍第一四師団に対し、東軍の近衛師団は甲州街道を西へ進み、谷保村(現・国立市)を占領して多摩川をはさんで対峙する。東軍第一師団も、三軒茶屋から多摩川に沿って大丸に進み、関戸の高地を占領する。西軍第一四師団に対して、東軍の近衛師団が左側から、第一師団が右側から襲いかかる格好で、攻撃準備が整えられていった。

図1―7―11 川を渡る兵士たち

 正午、連光寺に到達した陸軍中将・西川虎次郎第一師団長は攻撃命令を下し、連光寺から乞田へと司令部を移していく(資四―40)。この行動をつかめなかった西軍第一四師団は、現状を維持するため小比企方面にむかって退却し、東軍の二師団がこの追撃に移るところで、第一日目の大演習は中止となった。
 十一月十八日に多摩村が作成した「仕払書」には、東軍第一師団に供給したと考えられる木炭と炊爨(さん)手当が列挙されている。炊爨手当は一人五銭で、合計で一八五人分の昼食を用意していたことが仕払書からわかる。昼間の戦闘舞台ということで、多摩村の民家が宿泊施設になることはなかったが、それでも昼食の準備、「落伍兵」の案内、見物人の取締など、役場職員、在郷軍人分会員、青年団員は当日総出で、慣れない仕事に駆けまわっていたにちがいない。
 将校の説明による拝観を希望する団体はなかったが、十一月十七日の日野御野立所での皇太子送迎には、多摩村から村長、在郷軍人分会長、青年団長のほかに小学校生徒の代表者二〇人が参加している(資四―37)。当日は、送迎位置の都合から、小学校生徒ほか各種団体員には午前十時に日野の八坂神社境内に集まるよう指示され(多摩市行政資料)、約二〇〇〇人が沿道に立って迎えた(東京府『大正十年陸軍特別大演習東京府記録』)。東京市内から出かけてくる見物人も、立川・日野方面には一〇〇〇人あるいは二〇〇〇人いたともいわれ、中央線は大演習観戦者のための臨時列車を運転している(『東京日日新聞』大正十年十一月十七日付)。

図1―7―12 畑の中の演習風景

 大演習二日目の十一月十八日には、府中の上空を飛んでいた東軍の飛行機一機が、突然姿を消して多摩村付近に墜落したというデマが飛び交い、在郷軍人とやじ馬が集まって、大騒ぎになるというアクシデントもおこった(『東京日日新聞』大正十年十一月十九日付)。この出来事と関連があるかどうかわからないが、同日付で「新兵器」取締に関する通知が多摩村に届き、その構造の詳細な説明と撮影を禁止している(資四―41)。

図1―7―13 地図を広げる軍人