十一月二十一日には、観兵式が代々木練兵場で行われ、また演習地域の高齢者、戦死病没者遺族、不具廃疾軍人に大正天皇から「御菓子料」として下賜金があった。一〇〇歳以上の高齢者には五円、九〇歳以上の高齢者には二円五〇銭、軍人遺族と廃兵には一円が与えられている(東京府『大正十年陸軍特別大演習東京府記録』)。多摩村の作成した名簿によると、九〇歳以上の高齢者が一人、戦死病没者遺族が一四戸、廃兵が一人、村役場の伝達式で「御菓子料」を受けとったようである(多摩市行政資料)。
こうして、実質的には十一月に入ってから約一か月のうちに、多摩村の事前準備が推し進められた。総動員され、重責を果たした役場職員、在郷軍人分会員、青年団員、消防組員は、大演習が終わり、やっと重荷を下ろしたという心境にひたっていたであろう。大演習終了後まもなくして、内山田三郎南多摩郡長が藤井保太郎村長にあてて特別大演習への協力に対する礼状を送っている(資四―42)。多摩村にとって、大正十年陸軍特別大演習はほんの短期間の出来事であったが、村を挙げての一大行事であったといえよう。
大正十年(一九二一)十一月二十二日付の『東京日日新聞』の記事には、次のように書かれている。
……観戦客の為に田畑を可成ひどく踏み荒されて農家はクヨ/\零してゐるが、半面には亦喜んでゐる地主もある。夫れは常には一僻村として都人士に余り顧みられなかつた日野・立川初め多摩川沿岸の諸町村が、此大演習陪観人に其風光絶佳な別荘地・住宅地として好望な地点であることを合点させた事で、演習が土地の紹介の好機会であつたり、発展のチャンスを与へたりした事である。都会に住む陪観者・一般見物人の中には、平常鵜の目鷹の目で郊外の住宅地を物色してる連中も多く居た事と思はれるから、是は必ず近い将来には、なんとか形に現れて来ることであろう。
ここでは、見物人に田畑を踏み荒らされたことよりも、大演習が多摩川付近の土地紹介の絶好の機会になったことを強調している。そして、これが転機となって、郊外の別荘地・住宅地として近い将来発展するだろうと記者は予想した。この予想が当たっていたかどうかは別にして、いずれにしてもこのころには、地域発展の足がかりとして、都会の人たちの動向に関心を寄せていたということはいえよう。
昭和に入ってからも、多摩村は小規模ながら、演習地として利用されている。子どもたちのあいだでも、目の前で展開する実際の演習をまねたものが、遊びの一つとしてはやっていたようである。
図1―7―14 昭和初期の多摩川での軍事教練