大正時代の教育

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明治末年、多摩村では小学校の統廃合が進められ、明治四十五年(一九一二)五月八日、それまでの向岡、処仁、兆民の三校を統合して多摩尋常高等小学校が新しく誕生した。大正二年(一九一三)十月には貝取一七二四番地(現在の市役所の位置)に新校舎が建設されて本校とし、処仁小学校を第一分教場、兆民小学校を第二分教場として名実ともに装いも新しく発足した。多摩尋常高等小学校は、大正時代とともに本格的に活動を開始した。

図1―7―15 多摩尋常高等小学校大正5年卒業生

 ところで、大正時代といえば大正デモクラシーと称された時代であり、教育界ではその影響を受けて、個人の個性・能力を重視した新教育運動が一般に展開した時代であった。第一次大戦後、急激に流入してきた欧米の教育思想の影響を受け、多年の経験を生かした新教育説を唱え出した者も少なくなかった。なかでも八人の教育者の主張による八大教育の名称が、全国の教育界を支配し、大正新教育思潮の主流になっていった。
 新教育運動は、多摩村の小学校にもなんらかの影響を与えたであろう。『赤い鳥』の芸術教育運動は多摩小学校にも影響がみられる。学校では作文が盛んになり、多くのコンクールにも応募して成績をあげたことが多摩第一小学校の『学校のあゆみ』に記載されている。
 小学校教育の改善については、大正八年三月、小学校令施行規則の改正として実現し、理科を尊重して理科教育を改善し、地理および日本歴史の時間を増加して国民精神の涵養につとめることとした。さらに前年の七年三月に「市町村義務教育費国庫負担法」を公布、九年八月には小学校教員の俸給表を改め教員の待遇改善をはかった。
 高等小学校の内容改善については、十五年四月、小学校令施行規則改正が行われた。高等小学校卒業生の多くが卒業後実務に従事する見地から、必修科目に図面・手工業および実業を加え、女子に対しては裁縫のほかに家事を必要とすることに改め、珠算を必修とした。
 第一次大戦後の社会情勢は、実業補習教育制度の改革を必要とし、大正九年十二月に実業学校令および実業補習学校規程が改正された。この実業補習学校規程の改正により、従来の「補習」から「職業教育」と「公民教育」との二つに重点が置かれ、前期二年、後期二年から三年の課程に分けられた。実業補修学校はこの九年まで学校数・生徒数とも増加の一途をたどっていた。
 実業補修学校の充実に関しては、十一年「実業補習学校標準学科課程」が制定され、各府県に示された。多くの府県ではこれにもとづいて管下の実業補習学校の学科・課程を編成するようになった。多摩村においても十二年二月二十二日、村会に「多摩村立実業補習学校学則改正ノ件」が提出された。続いて十四年七月、多摩村農民公民学校と名称を変更した。
 十五年四月には「青年訓練所令」が公布され、青年訓練所が発足することになった。青年訓練所は、一六歳から二〇歳までの男子を入所資格者とし、多摩村にも同年六月に設置認可申請が提出され、七月一日に開所式を行った(『多摩町誌』)。