大正期の多摩尋常高等小学校

412 ~ 415
学校教育の基本について、府知事井上友一は、府教育の四大要項として「国民道徳の涵養、理化学思想の普及、海外発展の気風、体力増進の奨励」(『東京日日新聞』大正七年六月二十六日付)を述べている。さらに同年二月、南多摩郡長の教育に関する指示事項として裁縫、体育、理科の教科の推進と教員の優遇処置を行うことを指示している。このことは七年のみでなく八年、九年、十年の庶務会議でとりあげられている。ここに当時の行政の小学校教育に対する姿勢を知ることができるであろう。
 それでは多摩村では教育についてどれだけの財源を当てていたのであろうか。具体的に大正五年度の多摩村の歳出決算より「小学校費」をまとめたのが表1―7―16である。「小学校費」は経常費の四七・二六パーセントで支出総額(経常費・臨時費)の三四・〇〇パーセントである。「小学校費」のうち主体は給料で八〇・五パーセントに相当し、「小学校費」の多くが給料であることがわかる。「雑給」は旅費、傭人料、恩給基金納金、手当、賞与、生徒奨励費であり、「需用費」は備品費、消耗品費、通信運搬費、雑費賄費、「修繕費」は校舎修繕費である。
表1―7―16 大正5年度 多摩村小学校費歳出決算
小学校費 3353円73銭 給料 2698円36銭
雑給 140円01銭
需用費 467円02銭
修繕費 48円34銭

 多摩村の「小学校費」は客観的にどのように評価されるのであろうか。
 これに対して『東京日日新聞』(大正五年七月二十七、二十八日付)が三多摩全体として答えている。当日の『東京日日新聞』は「府下版」のトップに「劣勢なる三多摩の教育」という見出しで、サブタイトルに「教員俸給の安さは府下で第一」と掲げており、それに続けて「努めて向上を計らずんば教育は改善覚束なし」としている。新聞の記事によると、三多摩地方の小学教育は他郡に比較して「充実し居らざることは識者の夙(つと)に憂ふる所」であるとし、東京府視学の言葉として「三多摩地方が他郡に比較して著しく劣等なるは寔(まこと)に遺憾なり」とし、具体的な実例として教員の平均給与が他は二一円以上であるのに三多摩は一〇円台であり、学級数百に対し正教員数がそれ以上あるべき筈のところ、経済上の理由から代用准教員を任用せざるを得なくなっている、要は俸給を増すことは勿論である、としている。
 翌日の同新聞は三多摩の教育不振は「果たして経済上の関係か」として説明しているが、結論として帝都に遠く刺激に乏しいこと、それに多年郡内の首脳者が政党に走り教育事業を放任した結果であるとし、教育の改善に努めるべきであると結んでいる。
 ところで、大正初年の多摩小学校の教師は、「事務報告」によると表1―7―17の通りである。二年に学校統合で新校舎が完成したことから人数は減少した。三年に一三人になったのはその影響によるものである。
表1―7―17 多摩尋常高等小学校の教員数
正教員 准教員 代用教員
大正1年 9 3 4 16
2年 7 4 3 14
3年 7 3 3 13
「事務報告」より作成。

 校舎は本校と第一分教場(旧処仁小学校、現市立第三小学校)と第二分教場(旧兆民小学校、現市立第二小学校)であった。本校は一年から六年までと高等科が置かれており、学年別学級が編成された。第一分教場は乞田・貝取・落合の一年から四年までが利用し、五年からは本校に通学した。第二分教場は東寺方・百草・一ノ宮・和田の一年から四年までが通学した。分教場では複式学級で授業が行われた。
 学校統合により教員数を減少させたことで経費節減となり、本校で学年別学級が編成され、形の上では教育効果をあげることができたが、その負担は生徒の通学にかかってきた。一番の遠距離は唐木田からの一里一四町(五・四五キロメートル)であるが、下川原(現府中市)地域からは一里九町(四・九キロメートル)の道のりを小学一年から本校へ通学した。多摩川の渡船を利用しての通学は、唐木田の場合は五年からであったことを考え合せると一番大変ではなかったろうか。とにかく大正時代に入ってまったく新しい学校体制に組み替えられていったのである。
 行政において、教育に関する件としてまず関心が示されるのは就学の問題である。明治五年の学制発布以来、常に就学について努力がなされていた。多摩村における大正期の就学については表1―7―18の通りである。男女合せて常に九五パーセント前後の数字を示している。男子と女子の就学率をみると、男子が高く女子が低い。女子に教育をつける必要はないという考えが支配していたのであろう。大正九年の「多摩村巡視調査事項」(多摩市行政資料)によると、不就学の事由は「貧困」と記されている。全国の就学率と比較すると多摩小学校はやや低いことがわかる。
表1―7―18 大正期多摩尋常小学校の就学状況
年度 就学児童数 不就学児童数 就学率(%) 全国
就学率
(%)
明治45 587 15 97.4 98.23
大正2 578 9 98.4 98.16
3 547 20 96.3 98.26
4 273 270 543 5 18 23 98.2 93.3 95.8 98.47
5 262 276 538 9 20 29 96.6 92.8 94.6 98.61
6 269 292 561 9 19 28 96.7 93.5 95.0 98.73
7 280 303 583 6 13 19 97.9 95.7 96.7 98.86
8 285 293 578 7 15 22 97.5 94.9 96.2 98.92
9 289 294 583 6 15 21 97.9 94.9 96.4 99.03
10 99.17
11 309 313 622 4 17 21 98.7 94.6 96.6 99.30
12 295 298 593 4 22 26 98.6 92.6 95.6 99.23
13 292 292 584 4 17 21 98.6 94.2 96.4 99.40
14 303 308 611 2 11 13 99.3 96.4 97.9 99.43
「事務報告」より作成。「事務報告」の「現在就学児童数」を表中の「就学児童数」とした(「全国就学率」は文部省『学制百年史』資料編より作成)。

 国定教科書も第二期の教科書が編集された。「ハト マメ マス」の『尋常小学国語読本』が登場するのもこの時である。
 大正時代の多摩小学校には、運動場には遊具として鉄棒が一基あるだけで、大小のオルガン二台、授業は鐘の合図で行い、一日五時間ぐらいの勉強で、学習道具は明治の頃とかわりなかったという(前掲『学校のあゆみ』)。