多摩村教育会の発足と活動

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村会議員であった東寺方の伊野富佐次は、大正十二年(一九二三)一月二十日の「備忘録」に、多摩村教育会創立について触れている。
(大正十二年一月)
廿日曇 本村尋常小学校ニ於テ村教育会創立協議会開催、正午出席
出席者、藤井村長、前村長富沢、校長秋山、教員小形、山田、大貫、浜田学務及予(後略)

(伊野弘世氏蔵)

 この創立協議会で多摩村教育会の設立が決まった。その日、村長で多摩村教育会長になった藤井保太郎は、南多摩教育会宛に多摩村教育会の設置報告をした。「本月二十日、本村教育会別冊規則書ノ通リ設置致シ候条此段及報告候也」(藤井三重朗氏蔵)と記した。
 当時、南多摩郡の各町村には教育会が設置され、その連合により系統的組織として南多摩郡教育会が設立された。南多摩郡教育会の歴史は古く、明治二十年(一八八七)十二月に設立されたが活動もなく終った(『日野市史史料集』近代二)。大正十二年度からは制度を改め、系統組織につくられたのである。会長には南多摩郡長が就任した(同九条)。
 ところで多摩村教育会は、多摩村の教育について研究審議する機関で、講習会や講演会を開き、他の教育会との連絡、功労者の表彰等を掲げている(第十条)(資四―8)。役職員は会長・副会長・顧問・幹事・評議員・書記で会長には村長が就任、副会長・幹事は評議員のなかから互選、評議員二五人は多摩村の名誉職員と小学校教員中から選ばれた(第十一~十四条)。十二年における評議員の内訳は、村会議員五、学務委員一一、小学校男教員八、助役一の合計二五で、学務委員一一の中には前村長の富沢政賢や元村長の佐伯太兵衛が含まれている。副会長は評議員の互選で選出され、小学校長の秋山定徳が就任した。
 大正十二年度の多摩村教育会経費歳入歳出予算をみると、歳入は二六〇円で、会費六〇円(会員負担)と補助金二〇〇円(村費補助)、歳出は事務所費五〇円、会議費一五円、事業費六五円、負担金一二七円一六銭、予備費二円八四銭である。このうち事業費六五円の内訳(項目)は講話会費二五円で講話会一回分、学年研究会費一〇円、視察費二〇円、雑費一〇円として予算を組んでいる。この事業費から多摩村教育会が目指している目標を描くことができよう。
 関東大震災の半年後、大正十三年三月二十六日、南多摩郡教育会長から多摩村教育会長宛、「小学校優良児童表彰ノ件」の通知があった(藤井三重朗氏所蔵)。南多摩郡教育会表彰規程で該当者を旧桑都公会堂で表彰する、という示達である。多摩小学校からは六年男子一名、女子一名、高等科二年男子一名がその該当児童であった。三月三十一日の当日、生徒は保護者同伴で出席、各町村教育会長列席の会場で表彰を受けた。
 十三年五月一日には、郡教育会主催で第二支部小学校児童運動競技大会が、多摩村関戸堤防前グラウンドで開催されることになった(前掲)。午前九時から午後四時の予定である。第二支部ということからか数校の学校の合同開催であろう。南多摩郡と多摩村の教育会は以上のような新しい試みを教育会の組織を通じて目指していったのである。