関東大震災の発生

421 ~ 422
大正十二年(一九二三)九月一日は二百十日の厄日にあたり、朝から異様な天気であった。雨が断続的に降ったかと思うと、一〇時頃に太陽が激しく照りはじめた。多摩村東寺方の伊野富佐次もその日の冒頭の記録として「朝驟雨十時頃止ミ南風」と「備忘録」に書いた。驟雨とはにわか雨・夕立のことである。そのような雨が朝方に降ったのだ。
 雨が止んだ二時間後の正午頃、正確には一一時五八分四四秒、突然大地が大きく揺れはじめた。最初は、大きな横揺れにはじまり、その直後に激しく揺さぶるような動きに変わった。伊野は日記に驟雨に続いてこう書いている。
正午頃、稀有ノ大地震、家屋・倉庫ノ破壊及倒壊スルモノ夥シク、土路各所ニ亀裂崩壊ヲ来シ、殊ニ東京ハ甚シク且火災ヲ起シ其七分通ヲ焼土トナス、村内ニテ住家倒壊三十戸アリ

 後に関東大震災と呼ばれたこの大地震は、震源地は相模湾、マグニチュード七・九(烈震)で、大地震による激震は震源地に近い相模湾沿岸から房総半島の範囲にかけ内陸に向けておよんでいった。被害は二次災害も加わって東京、横浜に集中したが、震源地に近い小田原、鎌倉、それに千葉にもおよんだ。東京の被害の実数は、死者六万八二一五(東京市五万九〇六五)、負傷者四万二一三五(同一万五六七四)、行方不明者三万九三〇四(同一万九〇五五)、家屋全壊二万〇一七九(同三八八六)、半壊三万四六三二(同四二三〇)、焼失三七万七九〇七(同三六万六二六二)であった(萩原尊禮監修『地震の事典』)。

図1―8―1 関東大震災を報じる新聞記事

 関東大震災の恐怖は地震と二次災害だけで終わらなかった。大地震の直後に朝鮮人暴動の流言飛語がとびかい、人びとを恐怖のどん底につき落としていったからだ。東寺方の伊野富佐次も大地震の翌二日の日記に、今回の地震に乗じて朝鮮人が集団で民家を襲うという知らせがあり、当日の午後五時頃から青年団・在郷軍人会や消防組が連合をつくり、暴動に警戒を厳重にし夜明けを迎えた、と記している(資四―43)。
 二日、東京市と周辺の一部に戒厳令が布かれ、三日には東京府と神奈川県に拡大された。社会全体を震撼させた関東大震災に、南多摩郡をはじめ多摩村はどのような被害を受け、どのように対処していったのかを眺めてみよう。