多摩村の被害と対処

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九月一日は土曜日で、学校は夏休みも終って始業式の当日であった。多摩小学校の訓導であった小形忠蔵が学校からの帰途、連光寺の諏訪神社の前にさしかかった時、突然大地震が発生した。あまりの激しさに歩行もできず、やむなく手足を大地につけてその場に四つんばいになっていた。自宅も近くであったが、自宅手前の従兄の居宅と思われるところから砂煙が立ちのぼり、すかさず上隣りと思われる箇所からも砂煙が勢いよく立ちのぼった。家屋が倒壊し土蔵の壁が落ちたのだ。気がつくと後の砂煙は自宅の土蔵であった。
 震動が少し静まったので立ち上ると、諏訪神社の鳥居の屋根石が落下するのを見た。いそいで自宅にもどると、母屋はすっかり傾き、庭一面に大きく亀裂が走っていた。激しい余震がくりかえし続き、家族一同危険を避けて前畑に避難した。夕方になっても余震はおさまらなかったため、出入口の道路の縁で夜をあかした。
 小形忠蔵は九月一日、関東大震災の当日に経験したことを克明に「日誌」に記した(資四―44)。内容は以上の通りである。小形は続けて二日以後の様子を次のように記している。
 翌二日、なおも強震が続いて家に入ることができなかった。夕方午後五時頃、朝鮮人の暴徒数百人が凶器を持って町田・八王子等に来襲し、掠奪をほしいままにしているとのショッキングな知らせを受けた。いそいで婦女子を山野に隠れさせ、消防組、在郷軍人会、青年団等がみな鳶口、竹棒、刀剣等を持って地区内外の警戒にあたった。翌日の三日もなお強震が続き、朝鮮人問題は解決せず、二日と同様の状態が続き、家族は杉林の中に避難していた。余震は四日、五日、六日、七日と止むことなく続いた。
 多摩村落合地区の体験談を記しておこう。体験者はほとんどが小学生であった。
 九月一日は二百十日の日でマユかきをしていた。その時地震がきた。弟が生まれた年で、弟を抱いて外にとび出したが、母親が「子供を子供を」と叫んでいた。母親がいかに子供をかばうかをその時強く感じた。夕方(二日)朝鮮人暴動の話をきいた。半鐘もならされた。井戸はふるわれてすっかり濁ってしまい使えなかった。川の水で用をたした(小林藤雄氏、明治四十一年生)。
 学校から帰ってきて、当時貴重品であったカボチャを縁側で食べようとした時、地震がきた。家中で竹やぶに逃げたが、妊婦であった母親が「死んでも家の中にねる」といって家に入った。九月五日に弟が生まれた(寺沢茂世氏、大正二年生)。
 畑へ桑とりに行き、背負った籠をあがりはなにおろしたとたんに地震がきた。ゴーという響きで倒されてしまった(古沢正平氏、明治四十年生)。
 雷の大きいのがひとつ鳴ったと思ったが雷ではなかった。震災前までは日照りであった。ドーンと鳴ったあとに地震になった。家の中、蚕室では棚が落ち、朝鮮人騒ぎで一週間竹やぶの中で寝起きしていた(峰㟁キンさん、明治三十七年生、忠生村での体験)。
 朝鮮人さわぎで皆竹やぶなどに逃げこんだ。当時まだ電気はなくランプを使っていたが、ローソクと提灯の生活であった(小泉治助氏、明治四十二年生)。
 父親は仕事の関係で目黒の祐天寺にいたが、家が心配で二日の日に自転車で戻ってきた。途中、辻々に竹槍・刀・万能(農具)を持って自警団が警戒しており、住所・氏名を言わないと通さなかった、と父親から聞いている(峰岸松三氏、大正十一年生)。
 二日の午後四時頃より東京の方向から黒煙があがり、夜は火事で東の方向は空が赤く染ってあかるく、二日、三日、四日と続いたという(以上落合地区座談会で収録)。
 九月二日、南多摩郡役所から震災による被害調査について大至急報告をするよう多摩村村長宛に通達が届いた。翌三日、南多摩郡では、発足して間もない町村長例会を開き、各町村における震害の状況を報告した。九月六日、多摩村では役場で村会の協議会を開催、村会議員一二名中九名が出席し、罹災者救護、村の道路修繕、小学校並に役場修繕に関する三件を協議した。その結果、罹災者については「潰家」について一戸平均一〇円を食費として支給、道路修繕については交通途絶の道路は応急施設に相当する材料費を補助することとし、各地区に応急修理をさせ車馬の通じるように施設し、小学校と役場については授業上、執務上差支えないように至急修理を決めた(資四―45)。
 さきの南多摩郡役所からの「照会」について、多摩村役場は九月八日付で「震害報告」をした。それによると、家屋全潰は住家二七、倉庫(土蔵)一八、寺院一、神社一、納屋その他四八、半潰は住家五八、倉庫一〇九、寺院三、神社一、納屋その他六であった。報告にはないが、行方不明者が二人いた。小学校は校舎が全部傾斜し、その他石造階段、床、柱、壁、門柱が破損し、教員住宅は半壊、役場の建物は土蔵が半潰し、その他学校と同じような被害を受けた。別に道路・橋梁・堤防の破損や欠潰、田・畑・宅地・山林などの土地崩壊が報告された(資四―45)。前述のように特に南多摩郡の南東部にあたる町田町が被害が大きく、その隣接地域がそれに続いた。そのため町村青年団長会議で、東京府から依頼のあった「奉仕者選出」に各町村の青年団が割当てられたが、多摩村を含めて由木・稲城・鶴川・南・町田・忠生・堺の一町七村は除外されている(資四―49)。

図1―8―3 関東大震災罹災家屋の位置

 東京や横浜で震災にあった避難者が親類・縁者を頼って地方へ避難するとき、各地の青年団や在郷軍人分会や婦人会の者が、休護所・湯呑場、又は仮泊所を設けて救済にあたった。多摩の各地に避難してくる場合もみられた。多摩村では一九〇人もの避難者がいた。