流言飛語

428 ~ 430
本震のあとも余震は続いて恐怖は去らなかった。その恐怖がただよっているさなかに、いきなり朝鮮人暴動の情報が伝えられた。大地震の直後に、突然降って湧いたように起った朝鮮人暴動の流言に、罹災地はパニック状態になり、人びとは極度の恐怖におとされた。
 多摩村では大地震の翌二日、夕方五時頃にこの知らせが伝わり、瞬時に全村に伝わった。前述の伊野富佐次の「備忘録」には次のように記録されている。
二日 今回ノ天災ニ乗シ鮮人集団ニテ民家ヲ襲フノ報アリ、午後五時頃ヨリ青年団・在郷軍人団及消防組連合シ暁ニ至ル

 警戒は三日、四日と続いた、と「備忘録」には記されている。
 連光寺の小形忠蔵は二日「午後五時頃、鮮人ノ暴徒凶器ヲ持シ、町田・八王子等へ数百人来襲掠奪ヲ擅マヽニナス由報告アリ…」と日記に書いている。乞田や落合でも、朝鮮人暴動の流言が伝わると自警団が結成され、鉄砲(猟銃)・槍・刀剣・竹槍・農具等を持って警備にあたったという(落合・古沢正平氏ら談)。乞田では道路の三か所の辻口を三、四人で固め、川崎方向から襲来するという知らせに皆殺気立ち、半鐘が打ちならされて異様な興奮状態に包まれていった(乞田・新倉房吉氏談)。
 このような警備について役場では、消防団・青年団・在郷軍人会と協力して各地区とも警戒に務め、九月二日夜から十四日迄連続して警戒に当った(資四―45)。ただ、警戒の内容については、戒厳令が布告されて一般人が武器又は凶器を持つことをきびしく禁止したので(資四―46)、地震直後の警戒とは当然異なる内容になっていたはずである。
 ところで考えてみると、最大の被害者は加害者に仕立てられてしまった朝鮮の人びとであった。かれらは祖国を日本の植民地にされ、生活の貧苦から日本に渡ってきて低賃金にあまんじて生活していた人たちであった。一般の日本人は、日本が朝鮮を支配していることで恨みをかっていると考え、朝鮮人に対する差別意識も加わって、大地震という極度の混乱のさなかに「不逞鮮人」という流言飛語が生まれ、朝鮮人暴動のデマを信用してしまった。その時、朝鮮の人びとはそのような行動は何一つしていなかったのである。
 地震と朝鮮人暴動の流言飛語で社会全体がパニック状態になったため、政府は直ちにこの問題に対処していった。閣議が開かれ内閣の責任で摂政の許可を受け戒厳令が発令されることになった。九月二日、枢密院の諮詢をへることなく、東京市と府下の荏原・豊多摩・北豊島・南足立・南葛飾の五郡に戒厳令が公布され、翌三日には戒厳地域が東京府、神奈川県に拡大され、福田雅太郎大将が関東戒厳指令官に任命された。戒厳令は八王子警察署から「急告」という形で行政機関に伝達された(沼謙吉「多摩と関東大震災」『紫芳会報』18号所収)。
 九月六日の関東戒厳指令官の告諭は、八日に八王子警察署より印刷されて多摩村に配布された。それには戒厳令の拡大、流言飛語の取締、治安の維持と取締等、戒厳令の意義について記されており、以後順次「当局談」、「情報」、「命令」の形で、ガリ版刷りの印刷物が多摩村役場にも送付されてきた。役場が十日に受付けた関東戒厳指令官命令は、大地震直後に各地域で結成され治安にあたっていた自警団や一般人の武器・凶器の携帯禁止の通達であった。この時点で社会は、災害はともあれ一応平静を取戻していたのである。

図1―8―4 関東戒厳司令官之告諭