復興への取組み

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大地震の激しい揺さぶりによって、村内の各所で家が全壊、あるいは半壊した。傾いた家は家起しをしなければ住むことができなかった。まず何よりも生活の基盤である家屋の復旧に、自力でまたは講中(講をつくっている仲間)で全力を注いでいった。
 連光寺の小形忠蔵家では、地震から一週間後の八日になってやっと家起し業者が来た。傾いた母屋の家起し作業は一日で終了した。翌日は村内の者に頼んで馬小屋その他の起しをした。八日に母屋の修理が終わったのでその夜から母屋に寝ることができた。家起しは二人で二日の勘定で賞与とも四〇円を支払った。村内の者には一〇円を支払っている(資四―44)。
 乞田の講中は全部で一六軒、それが地震で全部傾いた。講中では家起しの職人を頼み、各家から一人が手伝いに出て講中総出で作業にかかった。家起しは一番下手の家から開始し、上手に進んで全講中を終了するのに一か月以上かかった。上手から手をつけるか下手から実施するかについても、互譲の精神が働いて何の問題もなくすべて順調に進められていった(乞田・新倉房吉氏談)。
 九月六日には前述のように村会協議会が開かれ、災害救助に関する件や、町村道路修繕の件、それに役場と小学校の修繕が協議された。道路の欠潰は一三一〇間(二三五八メートル)、橋梁は府道三か所、町村道一四か所、堤防一五〇〇間(二七〇〇メートル)で、二十一日に村会を開き、以上の工事費につき国庫補助の申請について協議した(資四―45)。
 九月三日、今回の震災について天皇より内帑金(ないどきん)として一〇〇〇万円が下賜され、内閣総理大臣が受理した。内帑金は恩賜金として配布されたが、多摩村では十二年十一月に恩賜金の請求額として四八〇円を請求した。内訳は、死亡一六円が二人分、全潰一戸当り八円が二七世帯分、半潰一戸当り四円が五八世帯分の合計としての請求であった。
 その年の十二月一日、多摩村役場で恩賜金下賜について伝達式がおこなわれた(伊野富佐次「備忘録」)。多摩村では各地域に被害状況によって恩賜金を配布した。
 ところが、翌十三年一月になり、東寺方に対して不公平だということで、東寺方の区長らが村長に申し出た(伊野富佐次「備忘録」)。村長もその申し出を了承したのであろうか、十三年三月十日に東寺方五名をはじめ合計一三名を追加している(資四―52)。
 表1―8―1は『資料編四』52をもとにして作成した一覧表である。この一覧表により多摩村が関東大震災によって受けた被害の地域と大小がわかる。特に連光寺の全潰一五は他を圧している。半潰も連光寺は最高で、次に落合、乞田、東寺方の順になっている。
表1―8―1 恩賜金受領一覧
被害
地域   
行衛不明
(16円)
全潰
(8円)
半潰
(4円)
連光寺 15 19
貝取 2 1 2
乞田 4 11
落合 5 15
和田 0 4
百草 0 2
東寺方 2 10
一ノ宮 0 5
関戸 0 2
落川 0 1
(合計) 2 27 71
( )内は「行方不明」1人分、全・半潰1世帯分の金額を示す。