たちあがる町村長たち

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大正三年(一九一四)七月二十八日に勃発した第一次世界大戦は、日本にとってまさに「天佑」となった。「大日本帝国」は、大戦により飛躍的な経済発展をとげ、戦後世界の「五大強国」の一つにのし上がった。しかし大戦中の極端なインフレは、農産物、そのなかでも米価と繭価の騰貴を引き起こし、農村には好況をもたらす一方で、都市の「俸給生活者」は「生活難」となり、大正七年八月、米騒動が全国に広がる。このため、寺内正毅首相は辞職し、原敬政友会内閣が成立する。
 この「生活難」に対処するため、東京府では井上知事が教員を含む官公吏の大幅な待遇改善をすすめる。しかしこの政策は、すでにインフレによって困難な状況にあった府下町村の財政を大きく圧迫した。しかも、大正九年三月には、戦後恐慌が発生する。これにより農村は好況から一転して不況の波にのみこまれ、町村財政は完全な行きづまり状態となった。なかでも教育費、とりわけ教員給与の負担が町村財政に重くのしかかった。
 これに加え、日本経済は大正十二年九月の関東大震災により打ちのめされる。復興のためには莫大な資金が必要とされ、この影響は、のちのち昭和二年三月の金融恐慌へとつながる。関東各地の町村も、震災のため多大の支出を余儀なくされ、疲弊の度を加えていった。政府は、町村の教育費負担を緩和するため、大正七年三月に市町村義務教育費国庫負担法、翌年三月には国税付加税制限率の大幅緩和、大正十二年三月の国庫負担法改正による負担金の増額などを実施した。また大正十年一月には、戸数割の賦課基準の所得額への統一と負担の公平化をはかるため、府県税戸数割規則が公布された。しかしこれらは、行きづまった町村の財政状況を抜本的に改善するものとはならず、農村の町村長たちは、困難な町村運営を強いられた。そのあえぎは、彼らが結集した町村長会の動向にみることができる(藤井三重朗氏所蔵文書)。
 大正九年(一九二〇)五月、中央報徳会主催による全国町村長会議が開催されたが、ここに集まった町村長たちは、翌年二月全国町村長会(会長・漆昌巌品川町長)で小学校教員俸給国庫負担促進を決議、これを政府に陳情するとともに、他三団体と合同で増額期成同盟会を組織した。また、この年の六月には東京府町村長会(会長・漆品川町長)がつくられ、この発起人総代には南多摩郡から森円蔵稲城村長が名前を連ねている。南多摩郡では、大正十一年二月に町村長会(会長・森稲城村長)が組織され、五月には「府県税戸数割規則実施に関し陳情」を府に提出する。この陳情では、同規則と細則が実施されれば、円満な町村運営が損われ、財政は非常に困難になると修正を要求し、もしこれが受け容れられなければ、全員総辞職をも辞さずとの強硬な姿勢をとった(『東京日日新聞』大正十一年五月九日、二十日、二十二日、六月六日付)。
 この府県税戸数割規則は、全国町村長会も見直しを要求し、同年五月には勅令により従来どおりの課税方法を総額の一〇分の四まで認めるなどの修正が行われる(水本忠武『戸数割税の成立と展開』)。さらに町村長たちの主張は、自治権拡大の要求へとつながっていく。大正十二年一月、全国町村長会は、地租と営業税の地方への移譲や、国家委任事務に関する交付金の支出、国府県税交付金の増額、郡役所の廃止などの要求を議決する。彼らは、財政危機のなかで、明治以来の地方制度が、第一次世界大戦後に大きく変貌を遂げた政治と社会の状況を前に限界に達していたことを、痛切に感じとっていた。