落日を迎える三多摩壮士

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自由民権運動以来、三多摩では一貫して自由党―政友会が圧倒的な影響力を保持し続けた。なかでも南多摩郡では、村野常右衛門と森久保作蔵の二巨頭が君臨し、政友会の強固な地盤を築き上げていた(『日野市史通史編四 近代(二)・現代』)。多摩村からも、村長の富沢政賢を筆頭に、佐伯太兵衛、小川平吉といった南多摩郡を代表する政友会系の有力者が輩出され、村内は人脈的にはほとんどこの系統で固められていた。
 しかし、こうした南多摩郡の政治状況は、大正期に大きく変動していく。大正五年(一九一五)十月に憲政会が組織され、反・非政友勢力の結集軸となり、政友会と議会勢力を二分するようになると、三多摩でも徐々に反・非政友勢力が影響力を拡大していく。大正八年九月の府会議員選挙では、北多摩郡で憲政会の小柳九一郎が接戦の末にトップで当選、政友会の紅林七五郎が落選している。一方南多摩郡では、村野を中心に政友会の地盤は依然として強固であったが、その個人的影響力は徐々にかげりはじめていた。
 この府会議員選挙の際、南多摩郡で政友会は従来通り二議席を独占したが、当選した多摩村出身の小川平吉が候補者となるには、西北部の村々から異議が唱えられ、政友会内部での地域間、業者間(建設業者たちが小川を支持)の対立があらわとなった。結局、西北部が支持した尾崎栄吉は、未公認のまま立候補し、落選している。こうした政友会の内部対立は、とりわけ八王子で顕著となっていた。このため、大正九年(一九二〇)四月の総選挙に八王子から立候補した村野は、憲政会の新人候補八並武治に破れ、引退に追い込まれてしまう。これより先、森久保作蔵も政界を退いていた。各町村の有力者を網羅し、長年にわたり鉄壁を誇った南多摩郡の政友会の地盤にもほころびが生じはじめていた。
 一方、多摩村では、明治二十二年の多摩村成立以来ながく村長を務め、南多摩郡にも「名望家」、政友会の重鎮として名を知られた富沢村長が退任する。その背後には、村政をめぐる微妙な軋轢(あつれき)があった。この遠因の一つは、御猟場問題であり、もう一つは学校統一事業をめぐる学区間対立であると思われる。大正九年(一九二〇)十二月に富沢村長が任期満了を迎えると、これ以上の延長を歓迎しない雰囲気が、確実に村内の一部には存在した。この年、馬引沢の住民により富沢村長の再任に反対する決議が行われている(多摩市行政資料)。その根底には、明治四十年の御猟場廃止請願の問題があったと思われる。さらに新聞紙上でも、富沢村長の「再選に反対するもの」が存在したことが確認できる。これは、政党的には全て政友系ではあるが、その背後には「少壮派の反老人感情」があったといわれる(『東京日日新聞』大正九年十二月十九日、大正十年三月九日付)。こうして富沢村長は、大正九年十二月に退任し、翌年一月二十九日に藤井保太郎が後任の村長となる。

図1―8―5 藤井保太郎(左)と富沢政賢(右)

 新たに村長に就任した藤井保太郎は、関戸の有力者の一角をしめる家の出身で、明治二十八年村役場に入って以来一貫して富沢・佐伯村政を支え、明治四十三年からは助役をつとめていた。さらに当時府会議員であった小川平吉とは、姻戚関係にもあった。したがって、藤井村長も富沢前村長と同様に、政友会につらなる村内有力者の一員であったことは、ほぼ間違いないところだと思われる。
 この点は、郡道編入問題に端的にみることができる。この時期、南多摩郡の町村長たちは郡制廃止により郡道がどのように処置されるかという問題に神経をとがらせていた。大正十一年(一九二二)九月十八日には、森南多摩郡町村長会長らが、現状の町村財政ではこれ以上の負担増には耐えきれないので、郡道を一括して府道に編入してほしいと東京府に請願している(『東京日日新聞』大正十一年九月十九日付)。しかし、府の財政事情からしてもこれは不可能であった。このため藤井村長は、旧知の小川平吉府会議員を通じ、政友会ルートで村に関連する郡道である「連光寺・淵野辺線」を府道に編入してくれるよう政治的働きかけを行う(資四―55)。
 ここにみるように、政友会に系列化された政治のあり方には、その基盤となる政友会の地盤が大きく揺らぎ始めていたこの時点で、すでに限界が見え始めていた。また村内も、それまで富沢村長の「名望家」としての「看板」によってまとめられてきたが、ここにもほころびが目立ちはじめていた。藤井村長には、ポスト富沢村政として多摩村の新たなあり方を模索するという課題が背負わされていた。