図1―8―6 大正期多摩村財政の動向1・歳出
各年度「多摩村決算書」より作成。実質値は深川正米米価を基に算出。
図1―8―7 大正期多摩村財政の動向2・歳入
各年度「多摩村決算書」より作成。実質値は深川正米米価を基に算出。
図1―8―8 大正期多摩村財政の動向3・歳出内容の比率
各年度「多摩村決算書」より作成。
図1―8―9 大正期多摩村財政の動向4・歳入内容の比率
各年度「多摩村決算書」より作成。
図1―8―10 村税納入の状況
各年度「多摩村事務報告書」より作成。
図1―8―11 小学校費に占める義務教育費国庫負担金の比率
各年度「多摩村決算書」より作成。
まず歳出について見ると、大正七年以降急上昇し、同十年にはほぼ四倍の規模に膨れ上がる。しかも七、八年は、実質的に歳出減となり、こうした傾向はその後も継続する。教育費についてみると、これも財政総額と同様の傾向にある。この教育費は、歳出に占める割合が極めて高く、六年以降はこれが五割弱に達していた。次に歳入面についてみると、これも歳出総額と同様の傾向にある。しかも、歳入は歳出ののびを充分にカバーしきれていない状況にあった。また、村税収入にしめる戸数割の比率は大正十年以降低下しており、戦後恐慌による税収の伸び悩みを裏付けている。このため、大正十年(一九二一)十二月には、南多摩郡から「本村納税不成績の件に付」係官が出張し、村会議員と協議の結果、区長の監督のもとで青年会員が納税の督促に当ることが申し合されている(伊野富佐次「備忘録」)。
しかし、その後も多摩村の財政状況は好転しない。政府からの義務教育費国庫負担金も、小学校費の三割弱でしかなく、村の財政難を根本的に解消するにはいたらなかった。その模様は、「昨今は町村費支出の主要なものの一なる小学教員の俸給支払に窮し、幾月も支払をせぬという向きさえある、一例は多摩村にあり、本年二月以来教員給の支払が滞り、二月分は幾分支給しただけで、三月以降のは一文も払われておらぬ」と報道されるほどであった(『東京日日新聞』大正十二年五月八日付)。
さらに関東大震災が、これに追打ちをかける。震災復興のため村は、大正十三、十四年の両年度に臨時費を含め土木費五五八七円余、小学校修繕費一五一〇円余の支出を余儀なくされる。しかし、村にはこれをひねり出す余裕はほとんどなく、その大部分は両年度で二八四五円に達する寄付金によってまかなわれたものと思われる。
これに加えて多摩村には、村内問題から生じた固有の財政問題もあった。それは、小学校統一事業の資金問題である。小学校統一事業の資金は、決算上、村債などによってまかなわれたが、実はその後、村内の有力者への借り換えが行われていた(藤井三重朗氏所蔵文書)。大正二年から九年にかけて、一三〇〇円が借入られている。こうした借入金の返済は、村の苦しい台所事情から、村税と相殺する形で処理されていた。これは、大正十二年(一九二三)四月の収入役の交代にともない表面化する。四月三十日の村会協議会で、その善後策が議論されたが、「午後十二時に至るも是が結議を見る能はず徒しく解散」した(伊野富佐次「備忘録」)。
結局この借入金は、前収入役の退職慰労金と相殺することで処理されることになり、八月二十日の村会で前収入役への慰労金贈与が議決される(伊野富佐次「備忘録)。翌年七月の「記録書」によれば(藤井三重朗氏蔵)、総額二二七三円六九銭のうち、一〇〇〇円を村からの慰労金で相殺し、残金は村が支出して処理することが、前収入役の遺族との間で合意された。そして、村の借入金は、いずれも七月二十四日付で元利返済されている。