建設にむけた動きは、大正十一年四月頃から本格化する。資金は、各地区ごとの寄付によってまかなわれ、徴収にはおのおのの有力者があたった(伊野富佐次「備忘録」)。こうして村内の個人六四八人、寺院一一などから集められた寄付金の総額は、二七三一円七五銭に達する。大正九年の村の総戸数は七七〇戸であるので、単純計算では村内の八四パーセントの家が寄付に応じたことになる。この内一四五六円を、六円以上の納入者一〇九人が拠出している。地区別にみると、一人当りの寄付金額が多いのは、下乞田、連光寺馬引沢・諏訪坂、東寺方などで、特に六円以上の寄付者が下乞田では一九人、東寺方では一二人に及んでいる(「忠魂碑建設費寄附者芳名」市川篤一氏蔵)。
地区名 | 人数 | 寄付金額 | 一人当り寄付額 | 主な寄付者(数字は金額、単位=円) |
関戸 | 59 | 180.00 | 3.05 | 藤井保太郎25・小川二郎20・相沢兵蔵15・小林卯之助8・小山儀兵衛8 |
貝取・貝取飛地 | 9 | 34.00 | 3.78 | 〓可夫12・秋山定徳10 |
連光寺・本村 | 53 | 180.00 | 3.40 | 富沢政賢20・小金豊成15・林義直15・田中善造7・土方養之助6・土方武治6 |
連光寺・馬引沢 諏訪坂 | 25 | 134.75 | 5.39 | 小形喜久治25・小形稔25・相沢兵吉10・小形忠蔵10・増田藤作10・小形忠治10 |
連光寺・下川原 | 32 | 147.10 | 4.60 | 佐伯源左衛門25・朝倉藤太郎10・朝倉弥蔵10・宮崎混蔵10・高野鎌太郎10・高野嘉一郎6 |
連光寺・船ケ台 | 42 | 171.00 | 4.07 | 長沢佐吉25・萩原大助10・萩原利作10・萩原健之助10・萩原銀之助8・萩原左馬之助8・長沢泰助8 |
貝取・本貝取 | 21 | 101.50 | 4.83 | 伊野平三30・伊野善左衛門10・新倉弥蔵10・伊野平吉10 |
貝取・瓜生 | 18 | 76.50 | 4.25 | 市川神酒之助10・市川伊勢吉10・市川宗治郎10・下野延太郎10・市川菊次郎10 |
乞田・下乞田 | 50 | 318.00 | 6.36 | 佐伯芳雄20・佐伯惣治郎20・馬場勇蔵20・馬場倉之助20・加藤甚平20・馬場佐吉20・小林利兵衛20・佐伯房吉10・小礒芳三郎10・小磯伊助10・馬場要蔵10・佐伯平蔵10・市村勝五郎10・市村林蔵10・馬場安太郎10・佐伯政五郎10・佐伯利平次8・小磯宇兵衛7・小林銀蔵6 |
乞田・上乞田 | 40 | 175.40 | 4.39 | 有山与市30・有山松蔵25・増田繁治19・有山覚之助15・新倉実太郎15・久保寺三蔵6 |
落合・青木葉 | 23 | 85.50 | 3.72 | 峰岸桃次郎10・小山兵吉10・有山佐一郎10・小山真之10・加藤嘉平次7・加藤平蔵6 |
落合・下落合 | 21 | 76.00 | 3.62 | 寺沢弥十郎10・寺沢仲一10 |
落合・山王下 | 26 | 75.00 | 2.88 | 小泉良助12・小泉喜六8・小泉サク8 |
落合・中組 | 20 | 83.00 | 4.15 | 横倉頼助15・横倉寛一郎10・川井平之助8・川井康一郎8・峯岸道助7 |
落合・唐木田 | 19 | 79.00 | 4.16 | 横倉伝吉10・横倉貞一10・横倉市太郎10・横倉與之助10・高村仁平7 |
和田・並木 | 17 | 56.00 | 3.29 | 高橋寛重20 |
和田・中和田 | 18 | 77.50 | 4.31 | 峰岸重蔵10・柚木ツル10・柚木林蔵8 |
和田・上和田 | 32 | 118.00 | 3.69 | 相沢庄蔵20・柚木敏蔵10・日吉仲一10・石坂元三郎10・真藤太一10 |
百草 | 11 | 35.00 | 3.18 | 臼井丈助10・柚木常吉10 |
落川 | 12 | 41.50 | 3.46 | 新倉佐兵衛8・増田喜市8 |
東寺方 | 59 | 295.50 | 5.01 | 杉田林之助40・佐伯太兵衛30・小原弘二郎20・杉田慶助10・藤井富蔵10・有山平蔵10・佐伯喜太郎10・伊藤良作8・伊野富佐治8・杉田信吉8・杉田初五郎8・杉田啓8 |
一ノ宮 | 41 | 161.00 | 3.93 | 山田富蔵10・太田近治10・佐伯良助10・永井佐兵衛10・中川佐一10・新田信蔵10・小暮仁兵衛8 |
寺院 | 11 | 30.50 | 2.77 | |
合計 | 659 | 2731.75 | 4.15 | |
こうして集められた寄付金により彰忠碑は建設に着手され、大正十二年(一九二三)五月頃には碑そのものは完成し、設置工事に入ったものとみられる。建設費用の総額は、石材が一四五〇円、揮毫料の一五〇円など二一〇四円に達していた(藤井三重朗氏所蔵文書)。ところが完成目前の彰忠碑は、同年九月一日の関東大震災により倒壊し、建設計画は一頓挫する。このため九月六日、委員会が開かれ、「彰忠碑倒壊、台石破壊に付」善後策が協議された(伊野富佐次「備忘録」)。しかし、ただでさえ財政事情が苦しい村には、彰忠碑を再建するだけの余裕はなかった。
この間の詳細は不明だが、大正十四年四月一日にようやく彰忠碑は、除幕式を迎える。震災による破壊からは、二年半以上が経過していた。彰忠碑は、この時期の村が抱えた困難や苦難、関東大震災による被害の記憶が埋込まれた場となった。
図1―8―12 彰忠碑除幕式
さらに藤井村長は、この彰忠碑の建設と同時に、農業振興にも乗りだしている。これは、この時期建設が進められていた玉南鉄道を農業生産に積極的に利用しようとする計画であった(藤井三重朗氏所蔵文書)。玉南鉄道が開通するにあたって、まず問題となったのは土地買収であったが、駅が設置される関戸の出身ということもあり、藤井村長はこの土地買収の取りまとめ役をしている。大正十二年一月には関戸区分が、共有地五九〇坪を一〇〇〇円で玉南鉄道へ売却することを決定する。ところが、各地で土地買収が進むにつれ、その価格は関戸を上回るようになった。このため藤井村長は、もしこれを関戸の人々が知れば騒動になるので、何らかの対策をとってほしいと玉南鉄道に求めている。村長は、鉄道の開通を契機とする多摩村の振興策を、具体的に提起する必要に迫られていた。
そこで考えられたのが、関戸駅近辺に共同倉庫と共同作業場を設置し、農産物の出荷の集約化と高付加価値化をはかろうという構想である。そして藤井村長は、自分が貨物運送取扱業者となることで、それを積極的に推進しようと考えていた。東京府も地方改良運動以来、共同倉庫の設置を奨励しており、また大正十三年度から共同作業場に補助金をだすことになっていた。大正十二年十二月、藤井村長は「貨物運送取扱指定申請」を玉南鉄道に提出、関戸駅での営業を申請する。そして、玉南鉄道建設の多摩村委員でもあった小川平吉府会議員を通じて盛んに認可を働きかけた。また同年十二月の「農会役員及区長、養蚕組合長連合協議会」では、共同倉庫と共同作業場を関戸駅付近に建設することが決定される。
だが、大正十三年二月の村会協議会は、役場付近に設置する場合に限って、これを補助することを議決する。これを受けて、三月十五日の村農会総代協議会は、両者を貝取飛地と関戸に設置することを決める。しかし、この時点でも村農会が共同倉庫と作業場を運営し、村がそれを補助するという基本路線は維持されていた。同年三月三十一日の村農会総代会でも、これに関連する大正十二年度追加予算を原案通り可決している。
ところが、この総代会終了後の協議会は、経費の問題から産業組合を設立して経営を委託し、またその設立は農会長である藤井村長に一任することを決定する。これを受けて、七月、村内から一二人が参加して産業組合設立のための協議会が開かれた。しかしこの協議会では、出席者が少なく設立は確定できないので、今後設立発起人を各部落から募り、勧誘をはかることで満場が一致、発起人の選定はまたしても藤井村長に一任ということになってしまう。
現実に、この協議会の参加者は村内すべての地区を網羅するまでにいたっておらず、また富沢前村長のような重鎮も入っていなかった。結局、村長の農業振興、地域開発構想は、村内多数が支持するものにはならず、またこの時点で村は村内全域から合意を取付けるような手段や方法も持ちあわせてはいなかった。最終的にこの共同倉庫と共同作業場は、十月の村農会総代会で個人から使用料を徴収して運営していくことになる。大正十四年(一九二五)一月二十五日、藤井村長は健康問題などの理由により任期を終え、退任する。しかし、こうした難問山積の状況では、容易にその後任は見つからない(資四―56)。一時は、富沢前村長の再登板という話も出たが、結局助役の伊野平三を強引に口説きおとし、三月二十四日の村会でようやく後任村長を決定している。多摩村に残された課題は、依然大きかった。