地域的自治組織の再編

447 ~ 452
こうして村に暮す人々の生活にとって、必要不可欠なものであったのが、地縁的な集団である。多摩村には数軒の家が集った組合、その組合の集合体である講中(こうじゅう)といった結合を基礎に地縁的枠組がつくられ、人々の暮しに密着した地域的自治組織(=部落)として機能していた。大まかにいってそのタイプは、旧村=村落である関戸・東寺方・一ノ宮、内部がいくつかにわかれ、これが村落機能を果たしていた連光寺・貝取・乞田・和田、講中が村落的機能を持っていた落合の三つに分類される。この地縁的組織は、村民の日常の生活の場であり、また共同作業が行われる単位でもあった。道路や橋梁、河川の維持、管理などもここで行われ、さらには祭礼を司り、芝居などの娯楽も行われていた(『多摩市史・民俗編』)。
 この地域的自治組織の運営は、その地域の実力ある何人かの有力者たちにゆだねられていた。もちろん彼らが直面する問題には、その手に余るものもある。その場合には、政治的解決が期待された。例えば東寺方では、大正九年(一九二〇)十月に「茱萸ヶ坂下道府支弁道復旧請願」を行うが、その際には元村長で東寺方の重鎮である佐伯太兵衛を先頭に、三多摩選出の政友会代議士である秋本喜七にその実現を依頼している。こうした政治的ルートは、それから四年後の大正十三年五月の衆議院選挙の際に、秋本が佐伯太兵衛の家に東寺方の有権者を集め「選挙に付懇請」したように、政友会が地盤を築き上げる基礎となっていた(伊野富佐次「備忘録」)。
 こうした地域的自治組織が、村の行政上に占める位置は、大正期以降大きく変貌を遂げていく。その転機となったのが、大正八年の区と区長、同代理の設置である。これにより多摩村内部は、一四の地区に分けられるとともに、それぞれに区長と区長代理が設置され、地域的自治組織がそのままではないにしろ行政の末端に位置付けられた。村からの指示は、区長打合せ会を通じて、地域の有力者の手によりその徹底がはかられるようになった。
表1―8―3 戦前期多摩村村会議員地区別一覧
M22 M25 M28 M31 M34
関戸 相沢兵蔵 相沢兵蔵 小川平吉 相沢兵蔵
小林祐之
 
連光寺・本村 富沢芳次郎 富沢芳次郎 富沢芳次郎
連光寺・本村 富澤政賢 小金寿之助 小金寿之助
連光寺・馬引沢  
連光寺・下川原 高野鎌太郎
連光寺・東部  
貝取 伊野権之助 伊野権之助 伊野権之助 浜田喜一郎
乞田 有山十七蔵(造) 有山十七蔵(造) 小磯栄三郎 有山十七蔵(造) 小磯栄三郎
有山覚之助
落合 寺澤弥十郎 寺澤弥十郎 小泉良助
横倉作次郎 横倉作次郎
 
和田 真藤龍蔵 真藤龍蔵 真藤龍造
 
百草 臼井庄蔵
東寺方 杉田吉丘衛
伊野銀蔵 伊野銀蔵 伊野銀蔵
落川  
一ノ宮 永井平太郎 山田惣助 山田惣助
 
M37 M40 M43 T2 T6 T10
関戸 小林卯之助 小林卯之助 小林卯之助 小林卯之助
 
 
連光寺・本村 富沢芳次郎 田中善造
連光寺・本村 小金寿之助 小金寿之助 小金寿之助 小金寿之助
連光寺・馬引沢 小形只市郎 小形只市郎 相沢良助 相沢良介
連光寺・下川原 高野鎌太郎 朝倉藤太郎 朝倉藤太郎
連光寺・東部   長沢佐吉
貝取 浜田喜一郎 伊野平三 伊野平三 伊野平三
乞田 佐伯英三郎 馬場倉之助 馬場沖太郎 馬場倉之助 小礒芳三郎
有山覚之助 有山覚之助 有山覚之助 有山覚之助 有山覚之助
落合 小泉良助 小泉良助 横倉勇造 横倉勇造 小泉良介
横倉作次郎 小山兵吉 小山兵吉
 
和田 真藤龍造 峯岸音次郎 真藤龍蔵
  峯岸重蔵
百草   臼井庄蔵
東寺方 佐伯喜太郎 佐伯喜太郎 杉田林之助 杉田林之助
  伊野富佐治
落川   新倉佐兵衛
一ノ宮 新田信蔵 馬場国太郎 永井平太郎 永井平太郎 山田富蔵 山田富蔵
 
T14 S4 S8 S12 S17
関戸 小川二郎 小川二郎 横倉碩之助 横倉碩之助 小川二郎
中村元次郎 持田源助 須藤兵介
福井万吉
連光寺・本村 田中新治郎 富澤清斎 富澤清斎 富澤清斎 城所彦次郎
連光寺・本村  
連光寺・馬引沢 相沢兵吉 小形忠治
連光寺・下川原 高野来助 高野来助 高野幾三 高野幾三 高野幾三
連光寺・東部 萩原銀之助 萩原大助 萩原利作 萩原銀之助 長沢末四郎
貝取 下野延太郎 下野延太郎 下野延太郎 市川宗治郎 市川宗治郎
乞田 増田啓治郎 増田啓治郎 増田啓治郎 増田啓治郎 増田啓治郎
佐伯芳雄 佐伯芳雄 小礒芳三郎 佐伯利平次
落合 寺沢京次郎 横倉與之助 寺沢音三郎 加藤平蔵 小泉喜三郎
横倉頼助 有山貞一郎 横倉仙吉 横倉伝吉
有山貞一郎
和田 平山多四郎 高橋寛重 真藤太一 真藤太一
伊野庄左衛門 伊野仲明
百草  
東寺方 杉田初五郎 藤井富蔵 杉田啓 杉田啓 杉田啓
石坂五三郎 佐伯太秀
落川  
一ノ宮 山田富蔵 小暮仁兵衛 山田富蔵 太田近治
「多摩市議会資料」などより作成。明治43年までは任期6年で3年毎に半数改選。

 この行政ルートは、村の財政難を打開するためにも役立てられた。村は、区長打合会の場で村税納入の徹底を指示し、村税の確保をはかった。さらに多摩村は、昭和二年に村税奨励内規を定め、納税収納の一層の徹底をはかる(資四―58)。この村税奨励の制度は、区をさらに細かく分割して納税区を設定し、ここに世話掛をおき、この世話掛が納税者名簿の作成と納税の督促にあたるとともに、成績が優秀な納税区には奨励金を与えるという制度であった。この結果、村税の滞納は、一〇パーセント以上も減少している(図1―8―10参照)。
 さらに、こうした行政と地域的自治組織の関係は、この時期の地方制度の諸改革により、より密接なものとなっていく。その一つに、先にみた大正十年の府県税戸数割規則と翌年の同規則施行細則の公布がある。これは戸数割の算定基準を、所得額を重視するものに改め、賦課の統一と公平をはかろうとするものであったが、そのためには住民の所得を正確に把握する必要があり、この調査にあたる資力調査員が各部落で選出される。東寺方では、大正十一年(一九二二)四月「山神社神酒供進」の席で、この選挙が行われ、杉田林之助、伊野富佐次、新倉佐兵衛の三名が当選し、彼らが「戸数割基準調査」を行い、これをもとに役場で開かれた「戸数割調査委員会」で賦課額が決定されている(伊野富佐次「備忘録」)。
 そして、この時期の農村の政治状況に最も大きな影響を与えるものとなったのが、農村への普選の先どり的な導入である。大正十年政府は町村制を改正し、公民権を拡張、さらに議員選挙の等級制度を廃止した。また翌年の新農会法により、農会総代選挙の選挙権が総ての会員に認められた。様々な制約は残されたが、これにより事実上男子普選に近い状況が農村において実現することになる。その背後には、農民組合運動に結集する小作農家をこの制度に包含し、農村秩序の再編を成し遂げようとする農林、内務官僚の思惑があった(大門正克『近代日本と農村社会』)。当然これは、多摩村にも影響を及ぼしてくることになる。
 村会議員の選出状況についてみると(表1―8―3)、明治期までは旧村からそれぞれ一名ないし二名選出され、特定の人物が長期にわたり村会議員をつとめる傾向にあった。しかしこの状況は、明治後半から徐々に変化しはじめ、選挙制度の変わった大正十四年の選挙では、議員の顔ぶれは大幅に入れ替わってしまう。しかも、その後の選挙では、各地域から代表者が出されるという大きな図式に変化はないものの、再選され続ける議員は少なくなっている。
 これは、先に述べた制度改革が選挙のあり方に大きく影響をおよぼした結果であると考えられる。地域的自治組織が行政ルートとして位置づけられるようになると、当然有力者にはより一層の実務能力と行政手腕が要求される。またその仕事も、納税など生活にシビアに密着するものが多くなり、いきおいこれを見る住民の目は鋭いものとならざるをえない。村会議員で再選されるものが少なくなったのは、こうした事情が絡んでいたものと思われる。
 大正十五年(一九二六)十二月、大正天皇が死去し、皇太子が即位する。これにより一連の代替り儀礼が全国的に展開され、昭和三年(一九二八)十一月十日の即位の大礼でクライマックスを迎える。多摩村でもこの日、高齢者への「天盃」の授与、祝賀式、提灯行列が催され、いずれも「非常の盛会」で祝賀ムードが盛上げられていった(伊野富佐次「備忘録」)。この時の提灯行列には、村の公の場での秩序をみてとることができる(資四―61)。行列の前後には、楽隊と村会議員四名ずつによる神社参拝代表がおかれ、その間に青年団、一般村民、在郷軍人分会員が配置された。青年団は各支部毎、在郷軍人分会員は地区別に整列し、一般村民は区長の監督のもとで参加した。行列は、第一分校を午後五時半に出発し、村内の各部落の鎮守を一巡した後、多摩尋常高等小学校に到着、ここで祝杯を挙げて解散となった。また、この「御大典」記念事業は、村レベルだけでなく各部落でも行われている。確認できたところでは、関戸の熊野神社、和田の愛宕神社と十二神社にこの時の記念碑が残されている。

図1―8―17 「御大典紀念」の和田愛宕神社の鳥居


図1―8―18 「御大典紀念」の和田十二神社の鳥居

 逆説的ではあるが、村内の各地域的自治組織は、行政の最末端に位置づけられることにより、この時期その結集力を高めていったのである。こうして村と地域的自治組織との間に行政上の相互補完的関係がつくり出され、両者の重層的な構造が生まれていった。そこには、ポスト富沢村政の時代の新たな村秩序を形づくる方向性が、ようやく見いだされようとしていた。