残念ながら多摩村とその周辺地域での農民組合運動に関する資料は、断片的にしか残っておらず、その全体像をつかむことは非常に困難となっている。ただ新聞記事などからみると、大正十一年(一九二二)十二月頃、和田に互助会と呼ばれる農民組織が結成されている。この組織は、最初地主との協調を目的としていたが、隣接の由木村の小作組合の影響により対決姿勢を強め、翌年二月から三月に一ノ宮、東寺方それに百草の農民を加え、小作料減免を求める小作争議を起こしている(『東京日日新聞』大正十一年十二月十三日、二十日、二十四日、大正十二年二月十三日、二十八日、三月八日付)。これに続き村内では、大正十三年の秋に関戸で小作争議が起きている(藤井三重朗氏所蔵文書)。これに関係したのは、地主が㟁可夫、相沢兵蔵、須藤兵介、小林卯之助、小林万平、小山儀兵衛、須藤藤吉、福井万吉の八人と観音寺、小作人は四二人に及び、かなりの規模の小作争議となった。
村は、ちょうどこの年の十二月に施行となった小作調停法におおむねのっとる形で争議に対応したようである。十月十六日多摩村は、役場で地主代表の㟁、相沢、小林の三人から状況を聞きとっている。それによると、第一回目の交渉で小作側は小作料を田畑とも一割二分減じることを要求、地主側は委員をたて、土地の等級を調査したいと回答、二回目の交渉では小作側が等級付けは不可能であるとし、要求通りの減額を主張、以後交渉は四回にわたり行われたが、議論は地主との個別交渉に移っていったようである。この小作争議はかなり長引き、翌年の五月には膠着(こうちゃく)状態となり、九月になって府が調停に乗りだすことでようやく解決の方向へと進んでいった(『東京日日新聞』大正十四年五月十四日、六月五日、二十一日、九月十日付)。
これに先立ち、関戸小作組合が結成されている(資四―66)。その規約には、「農事ノ改良」による「多量ノ収益」の獲得が組合の目的として掲げられ、また地主に対しては「妥協的」態度で臨み、「不穏ノ言語」を発するなどした組合員は総会の議決で処罰すると規定されるなど、協調的色あいが強いものとなっている。ここには、小作調停法の主旨を先取りし、自らの立場をより確実なものにしようとする小作組合側の周到な意図がみてとれるだろう。
また争議の長期化には、関戸ひいては多摩村の地主小作関係の性格が、大きく影響していたと思われる。この争議に関係した地主の小作地は、六町五反から三反七畝であり、彼らの多くは自らも農業生産にたずさわる在村の中小地主であったと考えられる(表1―8―9)。一方、争議参加者の耕作規模は、二反未満の零細なものも多いが、五反以上のものも数多くみられる点が興味深い。この傾向は、関戸小作組合の指導者に顕著に現れている。多摩村の農家一戸当たりの田と畑の単純平均面積は五反三畝であり、これからすると関戸の争議の参加者は、経済的には村内の中堅から下の層であったと考えられる(表1―8―10・11)。
名前 | 主な経歴 | 小作地面積 |
〓可夫 | 熊野神社氏子総代・衛生組合長・納税区世話掛 | 6町5反5畝27歩 |
相沢兵蔵 | 村会議員・熊野神社氏子総代・玉南鉄道創立委員・区長 | 3町1反6畝24歩 |
須藤兵介 | 熊野神社氏子総代・納税区世話掛・養蚕組合長・国民精神総動員実行委員・村会議員・村農業会総代 | 1町1反4畝18歩 |
小林卯之助 | 多摩村農会評議員・村会議員・学務委員・区長代理・熊野神社氏子総代・電灯架設委員 | 9反6畝15歩 |
小林万平 | 熊野神社氏子総代・納税区世話掛・経済更生実行組合第一区副組合長・産業組合監事・関戸農事実行組合理事・農業会理事 | 8反7畝1歩 |
小山儀兵衛 | 熊野神社氏子総代 | |
須藤藤吉 | 熊野神社氏子総代・区長・納税区世話掛・経済更生実行組合第一区幹事 | |
福井万吉 | 電灯架設委員・村会議員・農会総代・経済更生実行組合第一区組合長・産業組合理事・関戸農事実行組合組合長 | |
観音寺 | 7反1畝6歩 |
「小作調停ニ関スル書」(藤井家文書)、多摩市行政資料などより作成。空欄の数値は不明。 |
名前 | 役職 | その後の経歴 | 小作反別 |
小形源助 | 組合長 | 2反2畝23歩 | |
小山銀之助 | 副組合長 | 4反3畝19歩 | |
持田鉄太郎 | 相談役 | 4反3畝28歩 | |
相沢祐一 | 幹事 | 経済更生実行組合第一区幹事・農業協同組合会長・農業委員 | 2反4畝13歩 |
井上慶八 | 幹事 | ||
小川亀太郎 | 幹事 | 農会総代 | 5反6畝21歩 |
小林為吉 | 幹事 | 1反9畝24歩 | |
中村国蔵 | 幹事 | 関戸農事実行組合監事 | 5反9畝22歩 |
小林竹太郎 | 幹事 | 4反6畝18歩 | |
表1―8―11 関戸小作争議参加者の耕作反別分布 |
耕作反別 | 人数 |
1町歩以上 | 1 |
6反歩~1町歩 | 3 |
5反歩~6反歩 | 5 |
4反歩~5反歩 | 5 |
3反歩~4反歩 | 5 |
2反歩~3反歩 | 7 |
1反歩~2反歩 | 8 |
1反歩未満 | 8 |
合計 | 42 |
平均耕作反別=3反2畝2歩 前出「小作調停ニ関スル書」より作成。 |
以上、この争議は、自らも農業生産にたずさわる在村地主と、より一層の経営拡大を果たそうとする中堅下層の小作農民と間の、きわめてシビアな対抗関係の内に生じたものであったことがわかる。したがって、争議は容易には解決することができなかったのである。こうした状況は、村内の全般に共通していたと思われる。図1―8―19にみるように、多摩村の小作地率は南多摩郡のなかでは比較的低い。多摩村では大規模な地主的土地所有はそれほど展開せず、中小の地主と自小作の中堅層が均等に存在していたと考えられる。
図1―8―19 南多摩郡各町村の小作地率
『農業調査結果報告』より作成。
それでは、なぜ関戸で小作争議が発生したのだろうか。村内の小作地率についてみると(図1―8―20)、関戸は一ノ宮とならんで非常に高くなっている。これは、この地域に水田が多く、この小作地率が七割近くにも達していたためである。多摩村では、全般に水田の小作地率が高めだが、畑や桑園の小作地率は相対的には低く、これが中小農家の経営を成り立たせる重要な基盤となっていたと思われる。しかし水田が多い関戸では、こうした余裕が少くなく、いきおい地主との間に争議が起こらざるをえなかったものと考えられる(図1―8―21・22)。
図1―8―20 多摩村内の地区別小作率
「昭和四年産業調査結果表」(多摩市行政資料)より作成。
図1―8―21 多摩村の土地利用状況・地区別構成比
「昭和四年農業調査結果表」(多摩市行政資料)より作成。
図1―8―22 多摩村の土地利用状況・地区別面積
「昭和四年農業調査結果表」(多摩市行政資料)より作成。
以上が関戸の小作争議の概要であるが、先にも述べたように東京府では個別の争議に関係して単独の組合が作られるという傾向が強く、関戸小作組合もこれに類するものだった。しかし、大正十五年(一九二六)に普通選挙法が成立した前後からこの状況は大きく変化し、無産政党の議会進出をにらみ農民運動の系列化が進む。東京府では、昭和二年頃から日本農民組合に加盟する既設、新設の小作人組合が増え、また全国農民組合の支部が昭和四年には南葛飾郡で、また翌年には八王子で設立され、四支部からなる東京府連合会が組織されるまでになった(前掲『地方別小作争議概要』)。こうして系列化された各地の組合は、以前よりも戦闘的な姿勢を強め、南多摩郡でも鶴川村で昭和四年(一九二九)から翌年にかけて激しい小作争議が起っている。
多摩村でも同年四月に落合の「小作者、自作兼小作者」六一人により農民組合が結成される(資四―67)。今のところ、その前後の事情は詳しくわかっていないが、「落合支部」という印鑑を使用していることからみて、何らかの系列に属していたことが推測される。ただ規約面では、「農事改良発達」と地主小作間の協調により「生活ノ安定」をはかることを目的とし、共同購入、共同販売、相互援助、病害虫の駆除などが事業に列挙されており、従来の小作組合の路線を引継ぐものとなっている。
この落合農民組合の指導層についてみると(表1―8―12)、先にみた開墾組合と重複する者が多く、何らかの連続性が存在しているように思われる。しかし、開墾組合が山王下の住民により作られたのに対して、農民組合は広く落合全域からの参加者により構成されている。これは、農民組合が講中のような狭い地域結合の原理を残しつつも、農民や階級といった新たな結合の枠ぐみをもたらしたことを示しているものと考えることができるだろう。
名前 | 住所 | 農民組合 | 経歴 |
小泉留吉 | 落合(中組) | 組会長 | 農会総代・落合第四農事実行組合監事 |
加藤戸市※ | 落合(青木葉) | 副組合長 | 落合白山神社氏子総代 |
小泉喜助 | 落合(山王下) | 会計主任 | 落合開墾組合副組合長 |
内田丑五郎※ | 落合(下落合) | 評議員 | 落合第一農事実行組合監事 |
小林鶴吉※ | 落合(下落合) | 評議員 | 落合白山神社氏子総代・納税区世話掛・農会総代・衛生組合長・経済更生実行組合第九区幹事・落合第一農事実行組合監事 |
峰岸弥市 | 落合(中組) | 評議員 | 落合白山神社氏子総代・経済更生実行組合第十区幹事・落合地区青年会幹事・納税区世話係 |
小泉理助 | 落合(中組) | 評議員 | 落合第四農事実行組合設立者 |
小林初次郎 | 落合 | 評議員 | 落合第一農事実行組合設立者 |
田中唯一 | 落合 | 評議員 | 落合第三農事実行組合理事・多摩村農業会総代・農地委員・農業委員 |
井上清作 | 落合(中組) | 評議員 | |
黒田福一 | 落合 | 評議員 | |
寺沢鹿二 | 落合 | 評議員 | 落合第一農事実行組合設立者 |
須藤甚之助 | 落合(青木葉) | 評議員 | |
加藤惣蔵 | 落合(青木葉) | 評議員 | |
加藤留蔵 | 落合(青木葉) | 評議員 | 落合地区青年会幹事・農会総代 |
小泉政一 | 落合(山王下) | 評議員 | 落合地区青年会幹事・〔落合部落生活善化美化〕趣意書発起人・落合第三農事実行組合理事・村会議員 |
小泉福太郎 | 落合(山王下) | 評議員 | 落合地区青年会幹事・落合開墾組合員 |
高村吉太郎 | 落合(中組) | 評議員 | |
寺沢理三郎 | 落合(下落合) | 評議員 | |
いずれにしろ、大正末から昭和初期にかけて、村内には行政ルート以外にも、組織化を自らの手によってすすめ、自律的、能動的に農業生産を前進させようという農民が多数存在していた。むろんこれは行政的な組織化とは、めざす方向が大きく異なるものではあったが、両者はともに何らかの形で行政や政治との関わりを持つ主体的、能動的な農民を広範に産み出していった。その意味では、両者は軌を一にして、村の「参加」の枠ぐみを大きく広げるものであったといえるだろう。