全国の青年組織が、青年団として本格的に整備されるようになるのは、大正四年(一九一五)九月内務・文部両省が青年団体の指導育成と設置基準に関する共同訓令を発してからである。以後、それまで近世以来の若者組的性格を残していた青年組織は、修養、教育団体へと再編、整備されていく。
東京府でも、井上府知事による地方改良運動のなかで、青年団の問題が大きくクローズアップされる。大正六年五月に井上府知事は、訓令を発し、青年団育成を指示する(『東京日日新聞』大正六年五月六日付)。この頃から行政では、それまでの「通俗教育」に代わり「社会教育」という言葉が、主として青少年を対象として用いられるようになり、大正八年には東京府社会教育主事が設置された(『東京都教育史通史編三』)。
こうして行政によって青年団が整備されていく過程で、三多摩では各町村の青年団を連合した郡連合青年団が組織される。大正六年五月には西多摩郡青年会、翌七年五月の南多摩郡青年団、そして大正八年四月に北多摩郡青年団が組織される。大正十一年には八王子市連合青年団が結成され、さらに東京府全体の青年団を統括する組織として東京府連合青年団がつくられる(松本三喜夫「地方改良運動と青年団活動」)。すでに大正十年九月には、青年団運動の拠点となる日本青年館が設立されており、大正十四年四月には大日本連合青年団が組織され、青年団の全国組織網が行政の手により作りあげられていった。
こうして展開していった青年団活動の指導・奨励政策で重視された点の一つに、体育の奨励がある。すでに井上東京府知事は、大正六年五月に「体力はすべての問題の前提なり」と述べていたが、翌年六月十八日に東京府青年体育奨励規定が制定され、体育設備の設置と青年の体育向上を図る事業への奨励金の交付や成績優秀者・団体への表彰などが町村に指示された(『東京都教育史通史編三』)。全国レベルでも、大正十三年四月から内務省主催により明治神宮競技大会が開催されるようになり、各地で盛んに運動会や陸上競技会が開催されるようになった。ここには、第一次世界大戦で本格的に展開した総力戦をにらみ、国民を肉体的に鍛錬し、総力戦のための優秀な兵力として育成しようとする政策的意図があったといわれる(『東京都教育史通史編三』)。
一方、三多摩地域でもこの時期から各郡青年団が運動会や陸上競技会を開催するようになる。南多摩郡青年団は、大正七年(一九一八)十月十七日発会式に引き続き、観衆三万人を集め運動会を開催している。さらに、こうした各郡青年団の運動会を統合する形で、大正十年十一月には三郡連合運動会が開催されるようになった。ところがこの三郡連合運動会では、最終競技のリレーで西多摩郡の選手に不正があったと他郡からクレームがつけられ、観衆も入り交じった大乱闘騒ぎが起きてしまう(『東京日日新聞』大正十年十一月四日付)。
このため、これ以降各郡レベルの運動会も中断を余儀なくされたようである。少なくとも南多摩郡では、大正十四年十月に神宮競技会の予選として再開されるまでは中断していた。ところが、この復活した南多摩郡青年団の競技会でも、紛争が起きてしまう。第二位となった日野町青年団が、優勝した元八王子村の選手には「輸入選手」がいると抗議し、会場で大騒動になっただけではなく、日野町では青年団員や消防団員が郡役所に押しかけようとする構えを見せるなど、紛擾は大きく広がった(『東京日日新聞』大正十四年八月十九日、十月三日、四日付)。青年団は、大正期に行政の指導により大きく盛り上がったが、運動会の乱闘騒ぎにみるように、そこには青年の持つエネルギーが暴走する可能性も秘められていたのである。
さらに青年団には、青年修養組織という枠を自ら主体的に捉え返し、別な次元へ展開していく可能性すら存在した。たとえば南多摩郡では、青年団がこの時期大きな政治的問題となっていた三多摩を含めた都制施行を求める運動に加わり、東京市内でのデモを実施、政治的領域にも発言するようになった(『東京日日新聞』大正十四年三月六日付)。さらに、この過程では、従来のように「団長が小学校長や町村長では、やりにくい」との声があげられ、青年の自主的投票によって会長を選出し、さらに旧来の処女会を合併して青年団に男子部と女子部を設置するような動向も生まれていった(『東京日日新聞』大正十五年一月二十六日付)。こうした、青年団の活動が行政の指導の枠を乗り越える動きは、この時期全国的にみられ、長野県のように県レベルの連合青年団が自主的運営を達成するところまであったのである(芳井研一「日本ファシズムと自主的青年団運動の展開」)。