落合の青年組織は明治中期に若者組から青年会へと再編され、各講中を単位として組織されていた。活動の中心は、農業生産に関連した実業的なものにあったようである。落合青年会は、大正三年(一九一四)に中沢池周辺の共有地を借り、土地を開墾しているほか、大正九年にはここに植林を実施し、小作地として借用している。また、大正十年には郡道整備の「見積書」と「材料検査願」を郡長あてに提出しており、地域の公共作業の労働力を提供する主要な組織であったことがうかがえる(寺沢史氏所蔵文書)。その他の地区に関しては、あまりよく判っていないが、おおむね落合と同様の状況であったものと思われる。ちなみに、大正期には関戸の多摩川の河原で競馬が行われ、これを主催したのが関戸の青年会だったようである。この関戸の競馬は、大変なにぎわいをみせ、大正十五年三月の開催には、一万人あまりの観衆が集まったといわれる(『多摩町誌』、『東京日日新聞』大正十五年三月五日、六日付)。
こうした村内各地域の青年組織を連合し、大正三年六月十五日には多摩村青年会が設立される。しかし、これにいたる経緯も明らかではない。ただ設立まもない村青年会が、新築の多摩尋常高等小学校に桜を一〇〇本、また青年会貝取支部と乞田支部も樹木を寄付しているところからみて、村青年会の成立と小学校の統一事業との間には何らかの関係があったようにも思われる(多摩市行政資料)。また、村青年会成立時の役員、幹事には、村内で比較的青年会活動が活発であった落合からは一人も選ばれていない。実際落合の青年組織は、これ以降も落合青年会の名称のまま活動している。
こうして多摩村の青年組織では、従来の地域単位を維持しつつも、様々な局面で村青年会としての活動も行われるようになった。特に、運動会や競技会は南多摩郡青年団の運動会へ選手を送り出す予選的な意味もあって、この時期から盛んに開催されるようになる。落合青年会では、三本松に運動場を新設し、大正八年(一九一九)から運動会を春秋の年二回開催するようになった(『多摩町誌』)。多摩村青年会も同年から運動会を開催している(伊野富佐次「備忘録」)。この各地区と村青年会の運動会は、郡の運動会への予選を兼ねたものであったようで、大正九年十月に行われた多摩村青年会秋季運動会のマラソンで優勝した落合の鈴木誠は、南多摩郡の運動会へと進み、その参加記を残している(多摩市行政資料)。さらに、多摩村青年会は男子だけでなく、女子もその組織対象に広げ、大正十一年(一九二一)二月に多摩村婦人会が設立されている(『多摩町誌』)。この婦人会は、同年九月には村青年団と連合で運動会を実施(『東京日日新聞』大正十一年九月十四日付)、さらに大正十二年一月には多摩村青年団の団則が改正され、婦人会は解散となり、新たに女子部が置かれている(『多摩町誌』)。
こうして多摩村青年会が実体化していく過程においては、外的な要因も見逃すことはできない。大正七年二月の明治神宮造営への献木、また同年八月の米騒動、大正十年の陸軍大演習、大正十二年の関東大震災など、様々な局面で村の青年たちは、多摩村青年団員として活動するようになった。さらに大きいのは、大正八年に始まった南多摩郡連合青年団の幹部講習会の影響である。大正十年九月には、これに参加して触発された青年会乞田支部の団員が、郡道修繕の勤労奉仕活動にのりだしたところ、乞田川の砂利採取をめぐり、修繕工事を請け負っていた工事労働者と紛争を起こしている(『東京日日新聞』大正十年九月十一日、十三日付)。
大正十二年の東寺方支部の活動内容にみるように、多摩村青年会は本団と各支部という関係によって運営されるようになった。そして、大正十二年一月落合の青年会が総会で新たな会則を決定するとともに、名称も落合青年会から多摩村青年団落合支部と改める(寺沢史氏所蔵文書)。これにより多摩村青年団は、村の青年団として名実ともに完全なものになったといえるだろう。大正十五年三月多摩村青年団は、優良青年団として東京府から表彰を受けている(多摩市行政資料)。この青年団の支部と本団のような関係は、先にみた各地域的自治組織と多摩村の行政が形作る重層的な構造と同様なものであったといえるだろう。このなかで青年達は、各地域への帰属意識を持ちつつも、多摩村の青年としての自覚を深めていった。
月日 | 内容 |
1月18日 | 多摩村青年会支部長会議 |
1月20日 | 役員が桑園の手入れをしたのち本団の総会に会員一同出席 |
1月24日 | 幹事会開催 |
1月26日 | 道路の除雪作業 |
2月3日 | 多摩村青年会支部長会議、活動写真会準備について協議 |
2月5日 | 幹事会開催・活動写真会準備について協議 |
2月8日 | 午前道路の除雪作業、2名が活動写真会場の準備にいく |
2月14日 | 幹部会開催、クズハキの件について協議 |
2月15日 | 桑園のクズハキ作業を行う |
2月22日 | 本団の幹事会、南郡青年宮城拝観の件、南郡青年総会に出席する件、東京府青年協議会の件、秋期南郡青年運動会の件を協議する |
2月23日 | 幹事会開催 |
2月24日 | 電灯測量の手伝いを6名でおこなう |
3月3日 | 桑園一部改植の準備をおこなう |
3月10日 | 桑都公会堂で南郡青年総会開催、支部より2名参加 |
3月15日 | 桑園に肥料を施し、桑苗を植える |
3月21日 | 支会役員会開催、葱種を分かち、明日関戸競馬会に関する件、玉石運搬に関する件、図書の買い入れに関する件などにつき協議 |
3月22日 | 会員一同で関戸競馬会に到り、これをみる |
4月1日 | 関戸河原で多摩青年全部で校庭まで玉石と砂利、砂を運搬 |
4月4日 | 桑園の除草作業を午前中に行い、それから運動会及読書会などについて協議、午後8時から第1回読書会を開く |
4月4日 | 8日開催のはずの運動競技基本練習(多摩青年会主催)、都合により無期延期の通知あり |
4月13日 | 幹事会開催、愛国青年社主催第1回東京府青年大会に代表者を選定す |
4月22日 | 愛青主催東京府青年大会当日につき、午前6時半3名出発、八王子市織染学校の会場に到り、午前10時開会、各郡市青年意見発表、討論、決議、講評などあり |
4月27日 | 南郡青年団宮城拝観の当日につき、支部より伊野一郎が新宿御苑及宮城を拝観する |
5月5日 | 桑園の草取りをおこない、15日入札することなどを協議 |
5月15日 | 桑園除草及び桑葉入札をおこなう |
7月8日 | 桑園除草をおこない、馬鈴薯50貫を取り売却す |
7月25日 | 桑葉25円にて売約成立せしにつき契約書を取る |
8月7日 | 午前9時まで本会桑園手入れをなす |
8月16日 | 午後8時から本団幹部会に支部より出席、9月5日より五日間高尾山に開催の南郡青年団幹部要請講習会講習生選定の件、その他について協議あり |
9月2日 | 午後6時頃より会員一同及び消防組、在郷軍人などにて夜警し、翌朝にいたりて一時解散 |
9月3日 | 会員一同にて夜警す |
9月6日 | 夜幹事会開催す |
9月8日 | 午前山神社に青年会員及び消防手一同会合、協議会を開き、その結果青年会においては2名を会の名誉をけがしたるにつき一時退会を命ず |
9月10日 | 午後5時より本団幹事会に伊野一郎出席 |
9月11日 | 午後7時より支部総会開催、今回の大震災につき東京市の罹災者に慰問袋を送ることにつき協議し、結果会員全部で之を贈ることに決議す |
9月12日 | 幹部一同にて一般有志の家を歩く |
9月14日 | 慰問品全部を幹部にて事務所まで運搬、明日これを八王子まで運搬せんとし、人夫を抽選の結果、4名を決定し、桑園作業と繰り越してこれを行う事にする |
9月18日 | 午後1時より会員一同で桑園の手入れを行い、終了後酒を飲む |
9月20日 | 午後7時より本団幹事会に伊野一郎出席 |
9月21日 | 午後7時から幹事会開催、左の件について協議、南郡青年奉仕団、本会より石坂虎之助君と決定、明日これを本団に通知す |