ある農村青年の軌跡

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それでは次に、大正期の青年の思想と行動を、一人の人物に焦点をあてて考えてみよう。その人物は、寺沢鍈一である。彼は明治三十五年(一九〇二)に生まれ、大正六年、多摩尋常高等小学校を卒業する。その際には学術操行優良生徒として他の二名とともに南多摩郡教育会から表彰を受ける(『東京日日新聞』大正六年三月二十九日付)。しかし寺沢は、上級学校への進学はできなかった。それでも向学心と知的吸収力にあふれていた彼は、通信教育講座と様々な雑誌によってこれを満たす。そのなかでも寺沢が親しんだのは文芸誌、とりわけ『白樺』だったようである。白樺派の人文主義と自然主義を融合させ、自己存在を肯定的にとらえる独特な思潮は、農村青年の知的欲求を満たす格好の対象であった。
 だが寺沢鍈一は、全く孤独だったわけではない。周辺には、同様に文化的、知的刺激を求める仲間が、少数ではあっても存在していた。そうした仲間たちと寺沢は、「孤燈」と題する回覧雑誌をつくっている。残されている大正五年十二月の第五号(寺沢史氏所蔵文書)には、社友として寺沢のほか一三人の名前が記されている。
 さらに寺沢は、落合の青年団活動に積極的に参加し、大正十年度には幹事、大正十二年度からは会長をつとめている(寺沢史氏所蔵文書)。そこで彼が熱心に取り組んだものの一つに、謄写版による印刷物の発行がある。落合支部の会報は、残されている大正九年(一九二〇)十月のもので二二号を数え、編集兼印刷は寺沢〓一となっている。この号の巻頭には、武者小路実篤の『人間的生活』からの抜粋が掲載されている。この他、この時期寺沢は落合支部の文芸部報も発行している(多摩市行政資料)。一方、大正十三年十一月、落合支部は地区内から寄付を募り、蓄音機を購入する。この寄付には会員九二人、有志一〇一人から、合計九〇円一五銭とレコード五枚が集まり、蓄音機を六三円で、またレコード一八枚を二五円七五銭で購入した。十一月三日にはレコード演奏会が第一分教場で行われ、表1―8―14のような曲目のレコードが演奏された。
表1―8―14 大正13年11月3日レコード奏楽会の曲目(第一分教場)
分野 曲目
君が代
芸能 浪花節(新田新左衛門、塩山伊左衛門、山鹿護送)、琵琶(石童丸、常陸丸)、義太夫(寺子屋、二十四孝)
流行歌 ストトン節(私あ捨れもの)、童謡(かなりあ、雨、りすりす小りす)、復興ぶし、小唄(新関の五本松、籠の鳥)、蛍の光
洋楽 オーケストラ(スパニッシュセレナーデ、オリエンタルダンス)、ハーモニカ(カルメン、ドナウ川の漣、トロバトーレ、ユーモレスク)、独唱・三浦環(シューベルトの子守歌、ばらよ語れ)
多摩市行政資料より作成。

 また寺沢〓一は、大正十一年から村役場に勤務し始める。そして、青年期の彼に決定的な影響を与えたのは、南多摩郡青年団の幹部養成講習会への参加であった。寺沢は、ここに大正十年八月の第三回とその翌年の第四回の二回参加している。この幹部養成講習会では講習の他に、青年の自治的訓練の一貫として「開明村」と称する模擬自治体がおかれ、村長や助役、村会議員を選出して条例を定め、予算をたてるといったことが行われ、「開明タイムス」という新聞も発行された。この「開明村」で寺沢は、村議に選出されている。また、「男尊か女尊か」と題する討論会も行われた(寺沢史氏所蔵文書)。
 ここで講師をつとめた人物に、当時東京府社会教育主事だった松原一彦がいる。松原は、講習会開催の中心人物であり、寺沢〓一もまたここで松原の薫陶(くんとう)をうけ、大いに感化された青年の一人であった。これらの青年たちは、講習会参加後も連絡を取りあい、ネットワークを作っていった。なかでも第三回講習会の「男尊か女尊か」という討論会は、青年たちに大きな影響を与えたようで、彼らは「女尊会」という組織を結成している。これは、「女性尊重」をとなえ講習会参加者の親睦と修養をはかるための組織だったようである。大正十三年(一九二四)十二月の新年総会についての通知では、松原一彦と郡視学を招くかどうかを会員に諮っており、彼らが松原の影響下にあったことがわかる。

図1―8―23 大正13年落合青年会

 さらに、こうしたネットワークは、より広範な広がりをみせる。これは、この時期に南多摩郡で盛んとなった、後藤静香の希望社が発行する雑誌を普及する活動である。後藤静香は、大正期に民間から教化事業を盛り上げた人物で、彼が組織した希望社の雑誌や書籍は女学生や苦学生、農村青年に広く普及した(『後藤静香選集』)。後藤の主張は、白樺派的な人文主義と人間存在肯定論を、教化と修養によって焼きなおしたようなもので、当時の農村青年や女学生の心情に非常にマッチするものとなっていた。
 この雑誌普及活動=希望郡建設運動が、多摩村で行われるようになったのは、希望社の講習を受けた有山周二が紹介し、これに共鳴した寺沢〓一が普及運動に取り組むようになってからである(寺沢史氏所蔵文書)。寺沢らは、希望社誌友多摩村普及団を組織し、大正十四年(一九二五)五月からは「十日会」という例会もはじめられるようになった。また多摩村希望社誌友会も作られている。大正十五年八月の時点で、多摩村では希望社の雑誌が三一〇部購読されており、これは南多摩郡ではトップの成績であった(寺沢史氏所蔵文書)。
 この間、寺沢〓一にもある種の変化が生じている。それは、購読する雑誌がそれまでの文芸雑誌から、大正期に盛んに発行されるようになった総合雑誌へと変化していることに現れている。特に『中央公論』には、よく目を通していた。また、『女性』や『婦人公論』といった女性雑誌も読んでいた。自らの活動が、社会的に広がっていくなかで、彼の問題関心は一般の社会問題や婦人問題、それに政治的な諸問題へと広がっていった。昭和三年三月には、川井康一郎、横倉寛一郎、有山貞一郎、古沢栄一、小泉政一、加藤保蔵、加藤彦五郎という青年団落合支部の幹部であった人々と寺沢は、「趣意書」を作成している。ここでは、大正デモクラシーの政治的成果である男子普通選挙法の実施を政治的、社会的「革新」のシンボルとしてとらえ、国民、公民として新たな理想像に近づくための自己修養組織を新たに企画し、「部落生活」の善化美化に努力したいとの決意が述べられている(寺沢史氏所蔵文書)。
 こうして、青年団活動を拠点として寺沢〓一は活躍の場を広げ、落合だけでなく多摩村全体の青年団活動の中心的人物となり、多摩村青年団の副団長に就任する(団長は小学校長)。大正十四年四月には、第一回多摩村青年団中堅青年養成講習会が開催されているが、ここには松原一彦が講師として参加しており、松原と寺沢の結びつきがこの講習会を実現させる基礎となっていたことがわかる(資四―68)。この後寺沢〓一は、多摩村を担う青年中堅層の中核的人物の一人として、村のなかで大きな役割を果たしていくことになる。