電灯の開通と生活の近代化

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大正も後期になると、多摩村に暮らす人々の生活にも近代化の波が押し寄せるようになる。その大きなものの一つに、電灯の架設がある。これが多摩村で最初に話題となったのは、大正十年(一九二一)の南部電力の多摩川発電事業であると思われる。この事業は、多摩川の水を連光寺本村から取入れて発電し、周辺の村々に電力を供給しようとするものであった(伊野富佐次「備忘録」・富沢政宏氏所蔵文書・議会議事録)。しかし、この計画は立ち消えとなる。おそらく戦後恐慌による経済状況の悪化などにより、頓挫(とんざ)したものと思われる。
 この計画がつぶれた後、多摩村では東京電灯会社との間で電灯架設の交渉が進められる。村の周辺では大正十二年一月に由井村で電灯が架設されたが、費用負担の捻出に苦慮していた(『東京日日新聞』大正十二年一月十五日付)。なお、ここでは由井村に架設の後は、多摩村の一ノ宮に送電する計画となっており、後でみる電灯組合の範囲から一ノ宮と下川原、それに東寺方の有山地区が除かれていることからみて、これらの地区には多摩村の電灯架設以前に電力が供給されていたようである。
 この件に関して多摩村で協議が行われるのは、大正十三年からであるが、由井村と同様に電灯架設の費用負担に苦しむことになる(資四―71)。このため村は、架設費用の負担を減らそうと政治的な働きかけにも乗りだしている。大正十四年には多摩村電灯組合が組織され、東京電灯会社との間で補助金払い込みに関する契約が結ばれる(資四―72・73)。ここでは、関戸、連光寺(下川原地区をのぞく)、貝取、乞田、落合、和田、百草、落川、東寺方(有山地区をのぞく)の部落で組合を組織し、各部落ごとに料金の徴収にあたること、必要な補助金の総額は二万七〇〇六円で、その内五〇〇〇円は建設着手以前に払い込み、残りは七二か月で完済すること、組合員は一時金五〇〇〇円の支払いのため九月二十三日までに四円を払い込むことなどが規定されている。補助金の総額は、働きかけの成果か当初より大幅に減額されているが、それでも村民の負担は大きかった。この時、電灯を架設したのは六〇三戸、総架設灯数は一四〇九灯であった(藤井三重朗氏所蔵文書)。こうして村内には、順次電灯が架設され、大正十五年(一九二六)十月には「電灯も村内一般に点灯を見るに至り」、その慰労会が村役場で開かれている(多摩市行政資料)。しかし、村民の電灯会社への支払いは昭和七年まで続く。同年四月にようやく終了し、電灯組合は解散となった(伊野富佐次「備忘録」)。
 またこの電灯の架設が実現したのと同時期に、役場に電話が設置される。これは、郡役所廃止後の府との連絡のため設置が義務づけられたものであった。昭和二年八月の村会で「多摩村役場電話架設の件」が議決されるが、これもまた村に大きな金銭的負担を強いるものとなった。電話費用には府からの補助金もあったが、村も二五五三円を支出しなければならず、これを昭和二年度から六年間で分割して支払うことになった(多摩市行政資料)。
 一方この時期、多摩村の外側では、さらに大きな生活環境の変化が進んでいた。これは、「帝都」である東京が膨張し、三多摩を包摂するようになり、各地で様々な開発が進められるようになったためである。この基盤となったのが、大正二年の京王電気軌道や大正十四年の玉南鉄道の開通に代表される鉄道網の整備であった。さらに関東大震災後には住宅地の郊外への拡大傾向が顕著となり、大正十五年には箱根土地が谷保地域の宅地分譲を開始している(野田正穂「多摩の開発と土地会社」)。こうした開発は、この時期直接には多摩村に及んでいない。しかし周辺には、その影響が徐々に現れはじめていた。その一つに多摩川の景観とそれをめぐる生活環境の変化がある。
 すでに村内では、明治四十三年から下川原で東京砂利鉄道により砂利採取事業がはじめられ、後にこれは国有化される。また大正元年には、関戸河原の共有地での砂利採取事業に関する契約書が交わされている(藤井三重朗氏所蔵文書)。こうした多摩川での砂利採取が大規模なものとなるのは関東大震災後であり、復興事業のため大量の砂利が採取されるようになった。大正十四年(一九二五)には一四五万トンが多摩川流域から送り出され、北多摩郡が最も多く、南多摩郡はそれに次ぐ量を産出していた。さらに、この年からは下川原の鉄道省砂利採取場で砂利採取船が用いられはじめる。これは多摩川流域での機械式による砂利採取の最初であった(『多摩川誌』)。
 これに加え、多摩川の上流部では、東京市の手によって水資源開発が進められていく。大正二年、東京市は羽村の取水口から多摩川の水を新設の村山貯水池に導水し、そこから東京市内に水道水を供給する計画を立て、大正五年建設に着手、大正十三年三月には村山貯水池からの通水を開始する。さらに東京市は、第二期工事として山口貯水池の設置をすすめた(『多摩川誌』)。
 この砂利採取と水源開発事業のため、多摩川の水位や河床は激しく低下した。その影響を被った第一のものに鮎漁がある。鮎漁は、多摩村でも盛んに行われ、漁業組合が組織され、漁業権と資源の保護がはかれていた(『東京日日新聞』大正十一年十月三十一日付)。しかし村山貯水池が通水して以後は、減水による漁業不振が深刻化していく(『東京日日新聞』大正十四年七月一日付)。このため大正十五年五月、漁業資源保護をはかるため、富沢政賢を会長に三多摩漁業連合組合が組織され、放流による繁殖事業などが計画されたが(『東京日日新聞』大正十五年五月一日付)、その後も多摩川の鮎漁は衰退の道をたどっていくことになる。
 さらに、沿岸の住民にとって大きな問題となったのは、農業用水の不足である。大正十五年五月には多摩川沿岸で農業用水が不足し、府中町長ほか六町村長が府知事の援助により東京市と交渉、二日間の引水中止を市が承諾している(『東京日日新聞』大正十五年五月十六日付)。しかし、農業用水の不足を根本的に解決することは、現実には不可能であった。これ以降、こうした水騒動は農繁期にたびたび持ち上がるようになる。
 こうした三多摩の開発工事、特に砂利採取事業には、多くの朝鮮人労働者が従事していたことも忘れてはならない事実であろう。大正十三年の調査では、多摩村の周辺で下川原の砂利採取現場に八三人、また由井村の玉南鉄道建設現場に七九人の朝鮮人労働者がいたことが記録されている。彼らの日給は二円四〇銭であったが、住居・食事料として七〇~八〇銭を支払い、労働状態・勤務態度は良好であり、故国に毎月一〇~三〇円の送金をするものが少なくないと記録は語っている(中央職業紹介事務局「東京府下在留朝鮮人労働者に関する調査」)。しかし、大正十四年四月には玉南鉄道の建設工事現場で朝鮮人労働者が、賃金の不払いに抗議して北野駅付近の線路を占拠するという事件が起きており(『東京日日新聞』大正十四年四月五日付)、現実には彼らの労働条件や環境は過酷なものがあった。

図1―8―24 昭和5年頃の下川原の砂利採取場