日本経済の低迷と世界恐慌のはじまり

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大正後期から昭和のはじめにかけて、日本経済は低迷を続けていた。第一次大戦の大戦景気によって膨張した日本経済は、戦後恐慌や関東大震災の影響のため資本の抜本的整理が進まず、昭和二年(一九二七)三月の金融恐慌の発生を招いてしまう。こうした不安定な景気動向の影響により、図1―9―1~4にみるように昭和初期の多摩村の財政は依然として困難な状況にあった。とりわけ図1―9―4に明らかなように、教育費の負担は歳出の五割前後を占め続けており、引き続き村の財政を大きく圧迫していた。このため多摩村は、昭和二年(一九二七)十一月に義務教育費国庫負担法に基づき、昭和三年度の特別町村認定を申請している(多摩市行政資料)。この時作成された、「特別町村認定参考調書」には当時の村内の経済状況や村の財政事情が詳しく記載されているのでふれておこう(資四―57)。

図1―9―1 昭和戦前期の多摩村財政の状況1・歳入額の動向
出典:各年度「多摩村決算書」より作成。実質値は深川正米米価を基準に算定。


図1―9―2 昭和戦前期の多摩村財政の状況2・歳入構成比
出典:各年度「多摩村決算書」より作成。


図1―9―3 昭和戦前期の多摩村財政の状況3・歳出額の動向
出典:各年度「多摩村決算書」より作成。実質値は深川正米米価を基準に算定。


図1―9―4 昭和戦前期の多摩村財政の状況4・歳出構成比
出典:各年度「多摩村決算書」より作成。

 まず財政面に関しては、村税は限度まで賦課し、一戸あたり一九円五八銭の負担となっているが、これは村民の多数である「細民」には重い負担となり、また最近の生産物価格の下落により収入が低下、家計が困難となっているため滞納が増加し、経済状態が回復しない限り今後も滞納は増大するであろうと述べている。このため村は、事業財源の捻出に悩み、小学校敷地の購入、電話架設などは基本財産からの繰り入れによって対処したが、今後は、この積み戻しをしなければならず、これがさらに財政を硬直化させるという状況になっていた。
 一方、村民の経済状態については、最大の農家副業である養蚕業が、近年の糸価低落によって収入が低下し、また養蚕に次ぐ副業である竹製品=目籠製造や木炭の生産も実収は最高時の半額にまで落ち込んでいると述べる。総じて「経済界の変動」が産業におよぼした打撃は実に大きく、全ての生産物価格は下落し、とりわけ糸価の「暴落」は各農家の生計に大きな影響を及ぼし、ひいてはこれが納税状況に影響し、村財政の打撃は甚だ大きいとその苦衷を綴り、村は特別町村への認定を求めている。
 こうした不安定な経済状況を、根本的に立て直すことを旗印として昭和四年(一九二九)七月に成立したのが浜口雄幸民政党内閣だった。その最大の眼目は、金解禁政策にある。しかしこれには、準備段階としてかなりの資本整理と財政の緊縮が避けられない問題であった。そこで浜口内閣は政府予算の抑制をはかるとともに、町村にも財政の圧縮を指示した。また、社会的にも「公私経済緊縮運動」や「教化総動員運動」といった官製運動により、耐乏と消費の抑制をさかんに宣伝した。いってみれば、これは政策的にデフレ状態を作り上げたようなものだった(金原左門「昭和恐慌前後の教化総動動員」「『産業合理化』と公私経済緊縮運動」)。
 この緊縮財政政策を受けて、南多摩郡でも町村長会が各町村の事情にあわせて二割前後経費節減することを申し合わせている(『東京日日新聞』昭和四年九月十一日付)。しかし現実には、各町村の財政はどこも苦しく、緊縮財政の「恐慌」によって行政に支障をきたし、予算編成に「悲鳴」をあげるところが多かった(『東京日日新聞』昭和五年三月六日付)。しかもデフレによる景気の低迷によって頼みの養蚕も不振が続き、町村税の収納が満足にできず、財政が逼迫、教員の給与の支払いが滞るような有様となる(『東京日日新聞』昭和五年七月四日・五日付)。こうしたなか、昭和五年一月十一日、浜口内閣は、金解禁を断行する。しかしこの金解禁は、ちょうどこのころはじまった世界恐慌の影響をこうむり、日本経済はさらなる奈落の底に沈んでいく。