それでは、この農業恐慌が多摩村に与えた打撃を検証してみよう。まず図1―9―5で多摩村の産業構成についてみると、これは各年とも農業が最も多く、八割前後を占めている。次に図1―9―6および図1―9―7で生産物価格についてみると、昭和四年に多摩村全体で四二万五〇〇〇円あったものが、昭和七年には二一万八〇〇〇円と約半分の水準に落ちこんでいる。とりわけ農業の落ちこみは大きく、昭和四年の三二万四〇〇〇円が昭和七年には一六万五〇〇〇円へと半減している。さらに問題なのは、この生産物価格の下落が長期間にわたり続いたことである。多摩村全体の生産価格は、昭和十年にいたってようやく昭和四年時点の七割程度まで回復するが、同じ水準に回復するのは昭和十三年となってしまう。他の生産品目も同様の傾向にあるなかで、畜産業が農業恐慌のなかで大きく伸びていることが目をひく。
図1―9―5 恐慌期の多摩村の生産物価額の構成
出典:各年度『東京府市町村勢要覧』より作成。
図1―9―6 恐慌期の多摩村の生産物価額の動向(長期)
出典:各年度『東京府市町村勢要覧』より作成。
図1―9―7 恐慌期の多摩村の生産物価額の動向(短期)
出典:各年度『東京府市町村勢要覧』より作成。
次に、図1―9―8で農産物各品目の生産額についてみてみよう。これに関しては、恐慌前の昭和四年に関するデータが残っていないため、昭和十三年の数値を基準に考えてみたい。それによると、農産物の価格はほぼ二分の一の水準なのだが、繭の価格が三分の一の水準になっていることが注目される。農業のなかでも、養蚕業の落ちこみが非常に深刻なものであったことは明らかである。また、麦も同様に生産額が三分の一に下落している。多摩村の農業を支える三本柱、米と麦、養蚕のうち後二者は農業恐慌の深刻な打撃を被り、各農家の経営は破綻の危機へと追い込まれていったのである。こうして多摩村のすべての農産物の生産価格が落ちこむなかで、比較的ダメージが軽かったのは蔬菜や果実、雑穀・豆類であった。
図1―9―8 恐慌期の多摩村の主要農産物の価額動向
出典:各年度『東京府市町村勢要覧』より作成。
このような農業恐慌の打撃は、当然村の税収に大きな影響を及ぼすことになる。村税納入状況について図1―8―10をみると、昭和五年度の未納率が上がり、また期限内の納付率が低下している。昭和五年(一九三〇)三月の「多摩村区長打合事項」では、「財界不況の余波」のためいまだに全区完納することができない、このままでは所定の事業に支障が生じる恐れがあり、さらに年度末には監督官庁の会計監査もあるので、未納の人には督促状を出さざるを得なくなった、また期限内に納めなければ延滞料と手数料が加算されることになるので必ず年度内に納めさせるよう指導してほしいと指示されている(多摩市行政資料)。それでも村の財政は、容易にこの難局を打開することはできない。急場をしのぐため、昭和七年(一九三二)四月村は東京府農工銀行から四、五月分の小学校教員俸給として二〇〇〇円を一時借入することになってしまう(多摩市行政資料)。
こうした町村財政の苦境に際して、南多摩郡町村長会は昭和五年八月に「農村経済界不況に対する昭和五年度町村税減額の申合せ」をしている(『東京都町村長会史』)。ここでは、町村長は二割、町村職員は一割をそれぞれ給与から寄付することを申し合わせたほか、小学校教員も職員に準じるよう考慮をもとめること、教員住宅料と教員旅費は打ち切り、青年訓練所職員にも手当の半額寄付をもとめることが決議された。さらに町村負担金や各種団体への補助金の減額などが合意され、以上によって節減した予算は直ちに町村税の減額にあてることを決定している。
むろん浜口内閣も、こうした農村の惨状を傍観していただけではない。金解禁・緊縮財政政策を固持しつつも、昭和五年十二月、内閣は失業対策公債三四〇〇万円の発行を決定する。これにより農村に配分されたのが、失業対策農山漁村臨時低利資金である(資四―75)。村会は、昭和六年一月「多摩村失業対策農山漁村臨時低利資金転借規程」を議決する。これは、府によって仲介された総額四二〇〇円の資金を村が借り入れ、事業者に貸し付けるものであった。事業の内容は、小開墾、水害復旧工事、荒廃桑園の改植である。しかしこれは村が起債し、府からの借入金を返還するという仕組みになっており、村は昭和三十三年度までの長期にわたって村債を償還しなければならなかった(多摩市議会所蔵資料)。